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こんな本読みました

日本児童文学者協会関西センターの会員が、読んだ本をご紹介します

このコーナーは、ブログにお引越ししました!

​日本児童文学者協会 関西センター ブログ https://jibunkyokansai.exblog.jp/239965024/

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                                   2020年1月

 

読んだ人: 山地 美矢子

読んだ本:「ファンタジーを書く ~ダイアナ・ウィン・ジョーンズの回想~」

     ダイアナ・ウィン・ジョーンズ:著 市川泉・田中薫子・野口絵美:訳 徳間書店 

 

 この本は著者がこれまでに発表した講演原稿、雑誌や新聞の記事、書評などを集めている。

著者はスタジオジブリのアニメ「ハウルの動く城」の原作者として知られ、子供向け、大人向けの多数の作品が日本でも翻訳されている。

彼女の作品はストーリー展開もキャラクターも一筋縄ではいかない。ページを繰っていき、こうだろうと考えていても、必ずひねりがあり、予想を裏切られ、迷路に入り込み訳が分からなくことがある。

序文を書いているニール・ゲイマンも本人に向かって「あなたの本は難しすぎる」と言ったらしい。それに対し彼女は「子どもは大人より注意深く本を読むから、難しいと感じることはめったにない」と答えたそうだ。

で、大人の私は、彼女がどういう意図をもって作品を書いたかという説明をこの本で知り、ようやく自分の読みの浅さを思い知らされるのだ。

 また、本の書く時の彼女の意見を述べている。それは出版界や批評家のそれとは多いに異なるが、とても興味深く、勉強になった。この部分は皆さんにも読んでいただければと思う。

他にも、「指輪物語」や「ナルニア国物語」などの解釈や「家族から見た彼女」なども書かれ、色々な角度から彼女を照らしだしている。

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                         2019年12月

読んだ人:茅野 みつる

読んだ本:『点滴ポール 生き抜くという旗印』 岩崎航・著  齋藤陽道・写真 ナナクロ社

 

 

真っ白な表紙の上に、細い管(チューブ)の写真が一枚。その小さな細い管が、まるで主人公だとでもいうように、くっきりと浮かび上がる。

 

点滴ポールに / 経管食 / 生き抜くと / いう / 旗印

 

この本は、歌人・岩崎航さんが、授かった命を最後まで生き抜くと誓った思いを詠んだ5行形式の詩歌214編と長めの詩2編、そしてエッセイが収められている詩集だ。

岩崎さんは、3歳の時に進行性筋ジストロフィーを発症し、現在は胃ろうからの経管栄養と人口呼吸を使用し暮らしている。

エッセイ『生き抜くという旗印』の冒頭で、岩崎さんは告白する。

「かつて僕は、自分で自分の命を絶とうと思ったことがある。」

動いていた手足がだんだんと思うように動かなくなり、やがて座れなくなった。おいしいご飯も食べられなくなった。ベッドで寝たきりの生活になり、「青春時代を抉り取られた」「あまりにも多くのことを失った」と嘆いたこともあったと振り返る。

でも、「動くことができていた子どもの頃に戻りたいとは思わない。今のほうが断然いい」と言い切る。この強さは、どこから湧き出てくるのだろうか。

 

振り払っても / 振り払っても / だめならば / 認めてしまえ / 呑み込んでしまえ

 

肋(あばら)の浮き出た / 吾が薄き / この胸板も / 男の / 胸板である

 

すこし / 光の当て方をかえて / 心を映しだす / 新しい / 旗を立てるために

 

ページをめくりながら、もしも自分が岩崎さんだったら、どう生きるだろうかと考えてみた。動かない体につないだ管は、鎖のように思うのではないか。ただ、見上げるだけの天井に、絶望し心を閉ざしてしまうのではないだろうか。考えても考えても、後ろ向きの答えしか浮かばない。けれど、岩崎さんはそれを乗り越え、静かにまっすぐに「今」を生き抜こうとしている。

「生き抜くという旗印は、ひとりひとりがもっている」と岩崎さんは言う。

わたしの掲げる旗は、どんな旗だろうかと考えてみる。ひねくれて少し曲がったポールだけれど、その先端の旗は、風にのって自由にはためいているといいなと思う。

                                 2019年11月

読んだ人・上坂和美

読んだ本・『不死鳥少年 アンディタケシの東京大空襲』石田衣良 毎日新聞出版

 

1945年3月7日から3月9日夜までの出来事を疑似体験するように読みました。主人公の時田武は、アメリカ人の父、日本人の母を持つ14歳の少年です。幼い頃、アメリカで生活していた主人公のあだ名は、アンディタケシ。つまりアンダイイング(不死身)と呼ばれていたのです。

戦時下、少年たちの思いは、長くは生きられないというあきらめと、どうしょうもなく湧きあがる未来への夢、「お国のために」という使命感のはざまで揺れています。

従姉妹との淡い恋、友情やケンカなど当たり前の日常もありました。

父の国と戦うという現実に、タケシは複雑な感情を持ちながらも、けなげに生き抜いています。

しかし、3月10日のあの東京下町を焼き尽くす地獄のような空襲のなか、逃げ惑う人々のなかにタケシと家族たちがいました。これでもか、これでもか、という灼熱地獄。

タケシは一体どんな奇跡を起こすのでしょうか?

最後にタケシが見たものとは?

もし、この戦争がなければ、タケシには、どんな未来が待っていたのか、との思いがわきあがってきます。

 

戦争経験者が、どんどん減っている今日です。「どうしても書かなければならぬ」という作者の思いもひしひしと伝わってきました。

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                                                                                        2019年10月

読んだ人・奥田 詳子 

読んだ本:大久野島からのバトン 今関 信子  新日本出版社

 

「2016年関西センタ-春の講座」に参加したおり、著者の今関先生の机に置かれていた「大久野島からのバトン」の本を目にし、(あの、大久野島!?)本当に驚きました。というのも、つい数日前に、私は広島の田舎に孫たちと帰省したおり、海水浴と野ウサギに会いに大久野島に行ったばかりでした。広島で生まれ、18歳まで育ちながら、原爆ドームを訪れたのは随分後の事。大久野島と毒ガス製造の関わりも全く知りませんでした。ただ、その時、大阪から一緒に行っていた、6年生の姪の子どもが、「お兄ちゃんは修学旅行で、このウサギ島に来たことがある」と教えてくれ、広島の原爆ド-ム・資料館と大久野島は、修学旅行にセットで訪れている学校があることを知りました。滋賀県のミッションスクールに通う、中学生の香織達6人、夏休みの泊りがけの交流・ワークキャンプで原爆ド-ム・平和記念資料館を訪れ、大久野島へと渡りました。大久野島は忠海港からわずか15分、国民休暇村と野サギでも知られる長閑な島。しかし、かっては、地図からも消された化学兵器、ガス製造に関わっていた島でした。「技術養成校に合格した」と胸を張る、元ガス資料館館長、進一に、香織達は島で出会います。香織14歳、養成校に入学した進一も同じく14歳でした。養成校の授業、工場見学で、進一は、「ここで作業するときは、防毒マスク、防毒衣服、ズボン、ゴム長靴をつけること」、また、工場見学では、黒みがかった、赤茶色の顔、目は充血して赤く、ガス焼けの顔の工員を目の前にして、「・・・この工場で働けば誰でも焼ける。焼けなければ、一人前ではない!」と説明を受けます。20歳で終戦を迎える迄、進一は、毒ガス機械修理工として、防毒マスク・防護服を身に付け、機械補修、排風機や窯の修理に、咳に悩ませながらも働きました。一方、6割増しの危険手当がつく、ルイサイトの原液造りに化学工として配属された吉成達、「大久野島で働いていた人が島からでるのは、女の人は結婚、男の人は召集を受けるか、治る見込みのない人への医務解雇」 と、今では到底考えられない、劣悪な職場環境の中で体を蝕まれて行きます。「人道兵器」といいながら、毒ガス兵器は人を殺す兵器。また、これらの兵器を作る人たちも当然ながら健康を蝕まれ、体を壊し命を落す。地下道に攻められ毒ガス兵器被害で亡くなられた、中国の北坦村の方達、 そして、今尚、ガス後遺症で苦しむ人達、戦争は残酷です。かけがいのない命と叫ばれながら,こんなにも身近に、非人道的毒ガス兵器が造られ,使われていた史実を「大久野島からのバトン」が教えてくれました。修学旅行生に大久野島の案内もしていた、毒ガス機械修理工の進一の話から、香織たちは、「泳ぐだけなら、琵琶湖でもいいけど、毒ガスのことは大久野島でしか見られない」との思いで史実を学び、岡野先生からは「大久野島の毒ガスのことは、広島の原爆と同じくらいしらなあかんと思うよ」と教わりました。因みに、最近の傾向として、原爆ドーム・資料館と姫路のサファリパ-クやカヌ-等のセットで訪れる学校はあるが、広島方面への修学旅行は珍しいそうです。忠海港からわずか15分、その後も、私は何度か島を訪れました。いつか、未だ訪れていない砲台跡や毒ガス貯蔵庫跡等も歩いてみたいと思います。これからも、修学旅行生だけでなく、一人でも多くの方たちが、広島原爆ド-ム・資料館、大久野島、「毒ガス資料館」にも立ち寄ってほしいものです。

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                                                                                                             2019年 9

読んだ人:しんや ひろゆき

読んだ本:『その名にちなんで』ジュンパ・ラヒリ著 小川 高義訳 新潮社

 

※とある関西のラジオの番組『こんな本読みました』のコーナーにて

 

A「さて、今週の『こんな本読みました』のコーナーですが、Bさんの番やね。よろしくお願いします」

 

B「お願いしまーす。さて、私は本って結構感動ものが好きなんですけど、Aさんはこれまでに感動した本ってありますか?」

 

A「それなら何と言っても手塚治虫の『火の鳥 望郷編』(角川書店)とサン=テグジュペリの『星の王子さま』(岩波書店)やね」

 

B「『火の鳥』は確かたくさんシリーズがありますよね。その中の一冊ですね。『星の王子さま』と言えば『たいせつなことはね。目に見えないんだよ』でしたっけ?」

 

A「そうそう。僕はこのマンガの中で登場人物がまさしく『星の王子さま』のそのセリフのところを読むっていうシーンがあって、そのシーンを思い出すだけで、こう、何て言うか感動が蘇ってくるんよなあ。ほんで『星の王子さま』も読んでみたいと思ってんな」

 

B「なるほど。本を読んでいて新しい本と出会うってこともありますよね」

 

A「映画もあるよな」

 

B「映画ですか」

 

A「『ギルバート・グレイプ』って映画あるやん」

 

B「ジョニー・デップとディカプリオのやつね」

 

A「そうそう。で、『ギルバート・グレイプ』は、笹生陽子って人が書いた『ぼくは悪党になりたい』(角川文庫)って本の中で知ってんな。本を読んで観たくなって、DVDを借りにいったわ」

 

B「へーえ。『ギルバート・グレイプ』って確か町を出る話でしたよね」

 

A「うん」

 

B「自分の住む町にこだわって、でも最後は出ていくっていう」

 

A「おおざっぱに言うと、そうやな」

 

B「で、今日私がご紹介したい一冊は、名前にこだわったお話、本の名前もズバリ『その名にちなんで』です。著者はジュンパ・ラヒリという人です。知ってますか?」

 

A「ああ。『停電の夜に』(新潮社)やったかな、あれは読んだことある。ジュンパ・ラヒリって短編の人ってイメージやけど」

 

B「そうですね。デビュー作が『停電の夜に』で、二作目の『見知らぬ場所』も短編集でした。で、この『その名にちなんで』は初めての長編です」

 

A「へーえ。で、どんな話?」

 

B「はい。主人公はベンガル人の両親から生まれたゴーゴリって名前の男の子なんですが、アメリカで生まれ育ちます」

 

A「どこかで聞いたことのある名前やな」

 

B「そう。この名前はロシアの文豪ニコライ・ゴーゴリにちなんでつけられた名前です」

 

A「『鼻』のか。あれは奇妙な小説やったな。けど、何でまたゴーゴリなん?」

 

B「それにはちゃんとした理由がありますが、ここで明かすとネタバレになっちゃうんで言いませんけど、父親がつけました。小さい頃はよかったんですが、思春期に入った頃から、ゴーゴリはこの相当変わった名前がイヤでイヤでたまらなくなってきます。そして大学入学を機に、正式に名前を変えてしまいます」

 

A「なるほど」

 

B「父親にしてみたらちゃんとした由来のある名前なので寂しいわけですが、それは口に出さずに結構あっさり認めます。そこからゴーゴリはニキルいう新しい名前で生きていくことなるわけですが、私が感動したのは、父親がゴーゴリに名前の由来を告げる場面です」

 

A「良い話なんやな」

 

B「いえ、良い話というよりもどちらかと言うと怖い話なんですけど、生と死に繋がる運命的なエピソードで、この小説の根底を流れているテーマを含んでいます。じーんとくる場面です」

 

A「じーんとね」

 

B「はい。しかも、ジュンパ・ラヒリのすごいところは、このエピソードの後にもニキルをニキルのままでいさせるところと、このエピソードを小説の最後に持ってこないところです」

 

A「というと?」

 

B「日本の作家だったら、イヤで代えた名前の本当の由来を父親から聞かされて、そうだったんだというシーンを書いたら、その後名前をゴーゴリに戻しそうじゃないですか。そこでもう一回読者を感動させようと思って」

 

A「なるほど」

 

B「そしてこの山場を最後に持っていくというのが、一番ありそうな展開ですよね」

 

A「そう言われてみればそうかもな。感動的なシーンを最後にもってきたら、話もおさまりやすいしな」

 

B「そうなんですよ。でも、ラヒリはこの後も話を続けます。しかもこの場面はまだ全体の半分の頁も行ってないところで出てくるんですよ。タイトルの意味が、小説の半ばで明かされるんです」

 

A「ほーう。東野圭吾の『白夜行』(集英社)もそうやったよな。あれも、途中でタイトルの意味が分かる場面があって、鳥肌が立った覚えがある」

 

B「そうそう。私も読みました。あれと同じ感じで、ジーンと感動する本でした」

 

A「ところで、その『ジーンと感動する』って言い方が、今一つ分かれへんねんけど」

 

B「それはですね,いわゆる感動本って、感動させよう、感動させようって見え見えの場合が多いじゃないですか。そういうんじゃなくって、静かに進んでいって、あるポイントで突然、て言うか唐突に感動するシーンが訪れるっていう、そういうのが私は好きなんですよ。これがジーンと感動するってやつです」

 

A「なるほどね。確かに『どや、感動したやろ、どやどや』っていう本てあるよな。例えば○○(ピー)とか○○(ピー)とか、あの○○って作家の……」

 

B「あー、えー、そろそろ時間がまいりましたので、今日のところはここまでということで。それではみなさん、またいつの日かお会いしましょう。さようならー」

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​                                        2019年 8月

読んだ人:くぼひでき

 

読んだ本:

『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』石垣りん(書肆ユリイカ1959→花神社1988→童話屋2000)

『夜の人工の木』豊原清明(霧工房1995→青土社1996)

 

 

 

 まず引用から始めます。

 

   挨拶 ――原爆の写真によせて

                 石垣りん

 

    あ、

    この焼けただれた顔は

    一九四五年八月六日

    その時広島にいた人

    二五万の焼けただれのひとつ

 

    すでに此の世にないもの

 

    とはいえ

    友よ

    向き合つた互の顔を

    も一度見直そう

    戦火の跡もとどめぬ

    すこやかな今日の顔

    すがすがしい朝の顔を

 

    その顔の中に明日の表情をさがすとき

    私はりつぜんとするのだ

 

    地球が原爆を数百個所持して

    生と死のきわどい淵を歩くとき

    なぜそんなにも安らかに

    あなたは美しいのか

 

    しずかに耳を澄ませ

    何かが近づいてきはしないか

    見きわめなければならいものは目の前に

    えり分けなければならないものは

    手の中にある

    午前八時一五分は

    毎朝やつてくる

 

    一九四五年八月六日の朝

    一瞬にして死んだ二五万人のすべて

    いま在る

    あなたの如く 私の如く

    やすらかに 美しく 油断していた。

 

 

 

 毎年八月になると日本中のテレビやラジオが、先の(といっても何十年と前のだが)戦争を扱った記録や物語を、思い出したように放送します。もちろんそれ以外の期間はその制作の準備にあてているのだから、作っている側はずっと戦争と向き合っている。ただ、ほとんどの人にとっては夏は戦争を思い出さされる季節になっているようです。

 広島市に住んでいるとその「戦争」は最初の一週間で過ぎていきます。

 広島原爆忌です(広島原爆記念日という呼び方もあります)。そのあと長崎原爆忌、敗戦記念日と続くし、先立ってあちこちの空襲被害などがあるにも関わらず、広島市は八月六日の原爆忌までが「戦争の夏」だという印象があるのです。

 少し外に出るとその印象が大きく違います。

 市外・県外の人たちと接すると、広島市内の人のようには平和教育に触れていないように感じるからです。先述の「戦争の夏」は小学生のころから体験します。被爆した人の話を聞き、地元の被爆資料に触れ、映像を見て、さいごにそれらの成果を発表するのです。

 自身のことで言えば、1970年生まれですから戦後25年後に誕生したことになります。物心つくときにはまだ、あの惨状を生で体験した人が周囲にたくさんいました。わたしの家族がそうです。父も母も被爆者ですから、自分自身も被爆2世。だからあまり他人事ではありません。

 とはいえ、それらの被害が生々しく普段から生活を圧迫していたかというと、少なくとも私自身はそうではなかった。ふだんは戦争も原爆も気にせずに安穏と暮らしている。

 それが素地にあるから、外から人の話を聞くと意外に思います。原爆の落ちた日を知らない、誰が落としたのかを知らない、そもそも日本が戦争をしたことを知らない、そういう人たちもいるわけです。それは悪いことではありません。個人的には、知ってほしいと強く思うことはありません。知るべきとは思いますが。

 

 さて、紹介するのは二冊の詩集です。その中から一篇ずつを。

 先に掲出したのは1952年に発表された詩で、石垣りんさんが書きました。石垣さんは広島から遠く離れた地で、終戦から数年を経て原爆の事実を知ります。それはGHQによって情報が統制されていて、とくに原爆被害の事実については数年秘されていたからです(もちろん人づてには情報は広まりましたが)。

 その写真を見て、石垣さんが書かれた詩が「挨拶」です。

 この詩には先に書いた、外の人らしさがあると思うのです。初めて読んだとき、そのことが私には新鮮でした。今読み直してもそう思います。この詩のすばらしさは、原爆が戦争の中の一事であり、それがすぐに個人に直結するものだということを、あらためて問い直しているところです。ここで描かれている「油断」が今ないとは言い切れないこともまた、この詩を含む一冊が何度も何度も版を変えて世に問われる要因になっているのではないかと思います。

 

 原爆に関する詩はさまざまありますが、もう一つ引用して終わります。

 これは第一回中原中也賞を受賞した詩集から「原爆ドーム」です。神戸の青年・豊原清明さんが、阪神淡路大震災の直後の夏に物した一冊です。

 掲出の詩はあとがきより推察するに、当時18歳の豊原さんが、おそらく中学生くらいのときに書いたものだと推測されます。とするなら、もしかすると修学旅行とかそういったもので、広島に来たのかもしれません。毎年そうした生徒さん学生さんを、広島市ではたくさんお迎えしますから。

 この詩集は拙いといって過言ではない詩集です。手元にある「ユリイカ」1996年4月号の選評を読んでも、六人の選考委員が異口同音に同じようなことを言っています。しかし、そこにある言葉は飾られない、彼自身の言葉であるとも評しています(この点、石垣さんの詩と似ているように思います)。

 読んでいただければわかりますが、彼の詩は石垣さんの「挨拶」の詩と同じように、外部の視点から描かれているように思えます。しかし彼は戦争を体験していません。だからでしょうか、石垣さんの「挨拶」と違って、彼の詩には「油断」のようなものがない。油断とは状況を想定しうる中で生まれるものです。今の多くの人達はおそらく油断にも届かない微温的な環境の中にある。だから豊原さんの言葉は胸を打ちます。わたしは「油断」の一つ手前の状況を取り戻さねばと。

 長くなりました。広島からの「こんな本読みました」でした。

 

 

   原爆ドーム

                豊原清明

 

    同じ形をしている

    オモシでつぶされたのか

    夏になると

    背中やあちこちが

    ただれてくる

    どうしてみんなただれているのか

    そうだ こちらもオモシを持って

    抵抗せねばならんから

    あちこちがデコボコへこんで

    目の辺りにかさぶたが出来ているのか

    そいつがかゆいので

    イライラするのだな

    みんな写真をテカテカと光らせて

    いるけれど

    どうして昨日の光りは

    人間の体をバラバラにしたのだろう

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                                                                                                2019年7月

読んだ人:緑川聖司

 

読んだ本:『Papa told me』 榛野なな恵 作 集英社

 

小学校低学年の知世ちゃんと、小説家のお父さんの生活を描いた漫画です。1987年に連載がはじまって、いまでも単行本が出続けています。

さて、幸せとはなんでしょうか。結婚すること? 出世すること? テストで百点をとること?

幸せのカタチは人それぞれ。だけど世間には、自分の思う幸せのカタチを、あくまでも「善意から」すすめてくる人たちがいます。そして、そういう人たちの目には、自分とは違う幸せのカタチを追い求めている人は、「かわいそう」に見えるのかもしれません。

だけど、本当にそうでしょうか。休み時間に教室で本を読んでいたら、それは幸せではないの? 結婚しないとかわいそうなの?

「いわゆる父子家庭」の知世ちゃんとお父さんは、常に世間からの「かわいそう」と戦い続けています。武器はスーツケースいっぱいのプライドと想像力です。

再婚を何度もすすめてくる叔母さんに、知世ちゃんは「ぜんぜんわかってくれない」と憤慨します。

「さみしいことだってすてきなんだってこと 私には」

みんな、それぞれの「すてきなこと」を持っているのです。

以前、地元の育児系フリーペーパーに育児日記を連載していたことがあるのですが、その最後を、この漫画のエピソードでしめくくりました。

まだ小学校にあがる前の知世ちゃんは、毎晩寝る前に、お父さんにご本を読んでもらいます。だけどお父さんは、仕事や家事に忙しくて、たまには自分で寝てくれないかなと思っています。

そんなお父さんの思いを察した知世ちゃんは、ある日、「今晩から自分で読むから大丈夫」といいます。そして、戸惑いながらも子ども部屋を出ていこうとするお父さんに、こんな言葉をかけるのです。

「ご本いっぱい読んでくれてどうもありがとう」

部屋を出て、お父さんは気づくのです。自分は「またとない名誉ある仕事をさせてもらってたいたんだ」と。

いま、ぼくは小説家として、とても幸運なことに、子どもに物語を届けるというとても名誉ある仕事をさせてもらっています。

その名誉の重さや責任を考えると、仕事を頑張らないわけにはいかないのです。

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読んだ人:中川なをみ                                               2019年6月

 

読んだ本:『エヴリデイ』 デイヴィット・レヴィサン 作  三辺律子 訳  小峰書店

 

あぁ、読書ってこんなに楽しかったんだと、読後の充実感を味わった。

ファンタジーとリアリズムを追求していったら・・こんな作品が生まれるかもしれないという可能性を感じる。

 

主人公は一日の終わりに眠りにつくと、翌朝の目覚めは他人のからだとしてはじまるという設定。

一日24時間しか同一人物の人生を生きられない、が、しかし、本人の意識は留めているという特異な生活が繰り広げられる。

毎日他人のからだの中で生活しなければならない主人公Aの日常は変化に富んでいる。日々他人になっていくしかない人生にも決まり事があって、それは比較的近辺に住む16歳の子どもであること。ただそれだけの条件で、男女は問わない。

ドラッグ漬けの男の子だったり、非の打ち所がない容姿の黒人女子だったり、時には性同一性障害者だったりする。主人公の心情描写は勿論のこと、様々な登場人物たちの家庭環境や取り巻く状況の描写に、作者の眼差しが感じられて、時に自由と平等を希求する求道者のようでもあるが、すなわちそれは人を愛することを意味していると気づかされる。

作品は、日々与えられる他人の人生を生きている主人公が、出会った同じ歳の女の子に恋心を抱き、主人公の心情に変化が芽生えるところからはじまる。

同じ人物のままで連続する日々を生きたいと強く願う主人公と、そこに寄り添う恋人。

やがて、恋人は日々変わっていく主人公のからだに不安を持ち、ふたりの関係に将来性はないと絶望しはじめる。恋人との愛を守り貫きたい主人公が、確かな未来を求めて行動を起こす。

ファンタジックな世界はミステリアスでしかも確かなリアリティを感じさせるこの作品は、最後にわずかな希望を暗示して終わる。

 

誰も書かなかった世界を、ごく自然に叙情的とも思える手法で表現した作者の手腕はすごい。

ダイナミックとセンシティブが見事にバランスよく融け合っている。

言うまでもなく、訳者の功績も大きいだろう。

小説はたくらみであり知の楽しみといったのは大江健三郎だか、作者のたくらみに安心して身を委ねながら創られた世界に浸り、小説を存分に楽しむことができた。

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  読んだ人:中松まるは                                                                                 2019年5月

  読んだ本:「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書) 石原千秋著

児童文学を書きたいからといって児童文学しか読まないでいると浅いものしか書けなくなります。あるいは上達がおそくなります。これは、かねてからの私の持論です。

 では、児童文学とは関係ないのに創作に役に立つものにはどういうものがあるのでしょう? 今回は例として二十年前に出版されたこの本を紹介します。

 内容は二部構成になっています。一部が中学受験体験記。二部が中学入試国語の解き方。創作に役立つのは二部の方です。

著者が提唱している解き方は、問題文を読んだら型をつかみ一文に要約する、これだけです。

わたしはかつて創作講座の講師を務めたとき受講者に自分の作品を一文に要約するよう求めました。このやり方は、はっきり言ってハリウッド映画の脚本術のパクリです。ですが、今回の紹介のためにこの本を読み直してみたら、一文要約の根拠が記されていたことに驚きました。なんでも「物語は一つの文である」と言ったのは批評家のロラン・バルトなんですって。へえー。ハリウッドの脚本家にしても自分たちのやっていることがロラン・バルト理論の応用だとは気づいていないでしょう。実践が理論に追いつく。創作と批評は表裏一体。おそらく、そういうことなのだと思います。

だったら、中学入試国語の解き方は、裏返せば中学入試に出題されそうな児童文学の書き方につながるのではないか。その姿勢で読んでみたら、この本は実に示唆に富んでいるのです。

著者は、まず批判の意味もこめて学校の国語教科の目的は道徳教育にあると喝破してみせます。国語が道徳でしかないのなら、学校ではどういうことが道徳的に価値があるとされているのか、その価値観が物語の型を作っていることを覚えるべきだと説きます。

これを裏返してみましょう。情けないことに世の中には児童文学を修身の教科書としてしか読めない方が沢山いらっしゃいます。親御さんはまだ赦せるとしても、評論家や編集者にまでそんな人がいたら頭を抱えたくなります。物語にはそういう方々にこそ確実にウケる型が存在します。だったら、創作するときも、その型を意識すればいいということになります。では、その型とは……。あとは本を読んでのお楽しみ。

この本で使われているのは、物語の構造分析という手法です。創作を志す読者なら読み進める内に自分の作品も分析したくなってくるでしょう。それができるようになれば創作の腕も上がるというわけですね。

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                                                 2019年 4月

 読んだ人: 妹尾良子

 読んだ本:「アラン島」(岩波書店) 作者名 シング  訳者名 姉崎正見

 

みすず書房から新訳が出ているが、これは岩波文庫の旧訳。劇作家シングがアイルランドのアラン島を訪問したときの紀行文。アラン島は厳しい自然とアランセーターが有名だが、時は1898年、日本でいえば明治31年。近代化される前の過酷な自然の島の風俗が描かれている。

「私はアランモアにいる。泥炭の火にあたり、部屋の下の小さな酒場から聞こえて来るゲール語の話声に耳を傾けながら」

こんな冒頭で、行ったことのない遠い過去の異国へ誘ってくれる。

シングが案内人の爺さんと、古跡を歩きまわり廃屋で休んでいると、近くの人が来たので、廃屋について訊ねると、「ある金持ちが建てたが、2年後には妖精の群れに追い立てられてしまった」という。それから、泉のそばに行くと、やはり近くの人が来て泉の話をする。「ある女が生まれながら目の見えない息子を持っていたが、息子の目が治る泉がアラン島にあると夢のお告げがあって、夢でみたとおりに、この泉に来たら、本当に息子の目が治った」。

ある日、島の人が亡くなり葬式がはじまった。親族が木で棺桶を作り、女たちが集まり体を揺らしながら泣唱が延々と続いた。シングはこの様子を、人と自然が共鳴しあい、一人の死によって島全体の悲しみが引き起こされていると書いている。

島の荒涼とした景色、黒ビールに密造蒸留酒、土地の人たちとの交流の合間に、挟まれているのが話好きのパット爺さんが語る昔話。 

彼は実際に島のあちこちで何度も妖精に出会い、妖精にさらわれた女を知っている。そして、「大男の話」「金の卵を生んだ鵞鳥の話」「チャーリー・ランバートの話」などを語る。「子育て幽霊の話」は日本の昔話にもよく似ている。

 暮らしの中で、当たり前のようにいろんなお話が語られる。その土地のことを語るとき、暖炉端で語られてきたお話は欠かせないのだ。

かつてのアラン島には、そこかしこに妖精がいた。もし今、妖精に会いたいなら『アラン島』を読むといい。

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                                         2019年3月

読んだ人: 井上良子

読んだ本:『オオカミを森へ』 キャサリン·ランデル 訳原田勝 小峰書店

「子どもの文学そのものが、読者の未来を照らし出す力を持っている。」

今朝、私にとってはもぎたてだった野上暁の言葉の果実を食べた後、その種を貰って、「あ!この種はここに植えよう」と調子の悪いPC開いてこんな本読みましたに向けて書いています。

 実は何の本を選ぶか迷って、なかなか書き出せなかったんです。という事はいい子どもの本が、豊富にあり読める平和な日常に感謝ですね。でも子どもたちは勉強やゲームにいそしんでいるから、とても忙しい。大人が暇に任せて読むことが素敵です。子どもの文学は勿論大人のための文学でもあるもの。胸を張って子どもの文学を何度も再読したいと思います。ちなみに私は「秘密の花園」で出来ています。これから伸びてくる爪も髪も。

 

では、今日選んだのは「オオカミを森へ」 ジェルレヴ·オンピーコの装画·挿絵がまたいいんです。作家ランデルは1987年生まれ、アフリカ·ジンバブエで幼少期を過ごしたとか。その後ロンドンに移住オックスフォードの研究員。

おはなしの舞台は、100年も前の冬のロシア。暑い国で育ってイギリスに住み冬のロシアを舞台に書くことが出来るなんて、人間の知識と創造力ってすごいと感心しかり。想像する力って、とっても人に大事な力だと思うんですね。あらゆる無関心から、もしかしたら愛を生むかもしれないと真面目に思う。主人公は少女フェオドーラ。そして人間嫌いの私にはオオカミ達が主役でした。美しいオオカミ使いマリーナ·ペトロ―ヴナの親子は、オオカミを森に帰す仕事ができる親子だった。ロシアでは貴族達がオオカミを飼う事がステイタスだったのだろう。オオカミに飽きた貴族の元からマリーナの元にオオカミは連れられてきた。しかし、ある日冷淡な帝国陸軍の指揮官ラーコフ将軍のヘラジカをマリーナのオオカミが襲ったと怒りに触れた。ドアのノックと共におはなしは緊張し、一気に百年前の凍てつくロシアに私を連れていく。家は燃えマリーナは捕まえられた。母を救うために物語は進展していく。

私は、この物語の前半がとても好きだった。オオカミの毛並み、匂い、薄暗い家の中、炎、そして凍てつく寒さ、白い雪。質感に迫る筆力。そして私は、フェオの勇気と勇敢さが欲しい。後半は出会った人たち、子どもたちを味方にして母を救い出す叙事詩のような物語展開が待っている。是非一読を。そして挿絵にも注目してほしい。

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                                   2019年2月

 読んだ人: 西本博美

 読んだ本:「トンネルの向こうに」(小学館) 作者名 マイケル・モーパーゴ  訳者名 杉田七重

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  「舞台は第二次世界大戦下のイギリス。空襲で家を焼かれた少年バーニーは、親戚の家に身を寄せるため、母と一緒に汽車に乗るのですが、まもなく汽車は敵の戦闘機に狙われてトンネルの中に逃げ込むことに。暗闇が怖いバーニーにとって、これは最悪の事態です。同じ汽車に乗り合わせた知らないおじさんが、マッチに火をつけて明るくしてくれるのですが、それも一瞬で、また闇の中に突き落とされるのでした。そんなバーニーの気を紛らわせてやろうと、おじさんはお話を聞かせてくれます。魔法も無人島も出てこないけれど、本当にあったお話をしてやろうと語りだし、気がつけばバーニーはその物語に夢中になって、暗闇の怖さも忘れていくのです。」

 訳者あとがきからの、ほぼ、まるまるの引用です。

 実を言うと、こんなに有名な作家なのにはじめて読ませていただきました。

 ものすごく、おもしろかった。あっという間に読んでしまいました。

 舞台も第二次大戦下ですが、おじさんが語るお話も第一次大戦での兵士のお話です。フィクションの物語でありながら、ヒトラーが実名で登場し、その描写はまるで映画を見ているように鮮明に脳裏に浮かんできます。

 戦争文学は、どうしても悲惨さや残酷さが印象に残りがちで、子ども達には読みづらい印象がありますが、この作品は、怖さを含みながらも不思議なお話としての側面もあるので受け入れやすいのではないかと思いました。

 もちろん、大人の方にも読み応え十分です。ぜひ!

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読んだ人:草香恭子

 

読んだ本:『グリ―ン・グリーン 《新米教師二年目の試練》』 あさのあつこ作 徳間文庫   2019年1月

一昨年、所属している同人誌「季節風」の合評大会で、作者のあさのさんの分科会に参加した折に、『何でも質問をしていい』という機会をいただきました。

 大阪生まれのB型で、とっくに50を超えて、ますます厚かましい私は、

「いろんな話を同時進行で書いて、登場人物とかストーリーとか、こんがらがることはないんですか?」

と、不躾な質問してしまいました。あさのさんは

「んなこと、あるわけないじゃん!」

と、豪快に笑い飛ばしてくださいました。自分の失礼な態度にも気づかず、(そうなんや~。すごいなあ~)と、ひたすら関心する私でした。

 

 そんな私が、この本『グリーン・グリーン《新米教師二年目の試練》』をジャケ買いで選んだのは、あさのさんの超話題作である『ぼくがきみを殺すまで』の対極にあたるお作ではないか思ったからです。『ぼくがきみを殺すまで』は、架空の国・戦争を舞台に、L(エル)という何とも無機質な名前(?)の少年が、否応なく戦争に巻き込まれて行く様が描かれていました。黒い表紙に、背中を向けて佇む少年兵の姿。なんとも怖い感じでビクビク読み進め、ゾクゾクっとし、最後には自分自身の生き方をふり返り、しっかりせねばと読み終えたのです。

 それに対して、『グリーン・グリーン《新米教師二年目の試練》』は白ベースでパステル調。主人公と思しき緑のフレアスカートの眼鏡女子。豚に、農業高校生に、野菜たっぷりのお鍋のかわいいイラスト。おまけに主人公の名前が翠川真緑(みどりかわみどり)、生徒たちにグリーン・グリーンと呼ばれていて……なんてポップで楽しい設定! この二作の同時進行なら、私でもこんがらがったりしないかも。と、思いながら読み始めました。

 農業高校の新米教師という主人公の設定は、新婚当初の我が夫と全く同じでした。当時、学校の傍にあった教職員住宅に住まわせてもらっていたので、農業高校の広大な敷地や、文化祭での作物の販売や、鶏舎・牛さん・花卉や野菜のハウス・もちろん実習田なども思い出し、そこを舞台に繰り広げられる『農業高校あるある』も『ド田舎あるある』も懐かしく、ずっと半笑いで読んでしまいました。201号という真緑と会話する豚(!?)に至っては、豚舎で子豚をたくさん産んでいたお母さん豚を思い浮かべながら、くすくす笑って読んでいたので、後半に「え? そうなん?」とびっくりする事実も判明しました。

「とにかく楽しかった~」と読み終えるつもりだったのですが、そうは問屋がおろしてくれませんでした。(問屋じゃなくて、あさの商事かも)

一癖も二癖もある近隣の先達たち。今を生きている真緑の生徒たち。やっぱり事件は起こるのです。

不勉強な私は、読み終わってから、これがシリーズ二作目であることを知りました。「わー! 三作目、絶対読みたい!」と、わくわくしてしまうラスト・シーンでした。

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読んだ人:松弥龍

 

読んだ本:『4ミリ同盟』    福音館書店    高楼方子/作          2018年12月

 

ポイットさんという紳士が、たまご形の顔に汗を浮かべながら船着き場でたたずんでいる。この物語はそんな場面からはじまる。ポイットさんがいる地方はかなり風変わりなところで、ここで暮らす人々は、成長するにしたがって、<フラココの実>という名の果実をときおり食べないと、どうにもこうにもやっていかれなくなるという、ふしぎな体質をしていた。その実は、大きな湖に浮かぶフラココノ島とうへ行けばいつでも実っているし、島へ渡る手段はいくつもあるというのに、一人一人の心具合と、からだの具合に応じた最初の<食べ時>がくるまでは、島に行きつくことができないそうだ。しかも、一度<フラココの実>をとりこんだら、自分の中の<何か>が消えてしまうらしい、という言い伝えまである。

やさしく切ない、というその味を求めて、ポイットさんはこれまで何度も<フラココの実>を食べようとしたが、いつも何かしらハプニングが起こり、二十五回の挑戦すべてが失敗に終わっている。まじめに四十八年生きてきたのに、まだ<フラココの実>を食べていないなんて、とすっかり意気消沈しているポイットさんの前に、ひとりの女性があらわれて……。

設定がとてもユニークでおもしろい。登場する人々がみな、言葉づかいはやんわりでありながらも頑固、それでいてチャーミングなので、彼らのつながりもふくめて、(この先、どうなっていくのだろう)とワクワクした気持ちで読みすすめていった。

謎めいたタイトルも秀逸で、この物語の面白さをさらに引き出していると思う。大野八生さんが描かれた挿絵も愛らしい。

何かを得たときには、確実に何かを失っているのだろう。それでも、失くしたものに目をむけて悔やむのではなく、いま自分が持っているものをだいじに抱えて生きていくことができたら、すてきだなと思う。

 でも私だったら、自分の中の何かが消えてしまうのがこわくて、<フラココの実>をずっと食べないままかも。どんなに食べたくても、「がまん、がまん」とつぶやきながら。

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読んだ人: 西村さとみ

読んだ本:『ぼくのメジャースプーン』    講談社文庫   辻村深月 作  2018年11月

 

ずっと前に読んだ本ですが、再読してみました。その時は〈泣ける〉本だったと思ったのですが、今回読みなおしてみると(内容をほとんど覚えてないのに驚きました)また違った印象を受けました。

 小学四年生のぼく(主人公)は、近所に住む同級生のふみちゃんと友だちだけど、ちょっと尊敬もしています。ふみちゃんの外見、性格がいろんな場面で細かく描写されていて、魅力的なふみちゃんのイメージがとてもよく立ちあがってきます。また、ぼくは、ある不思議な能力を持っています。その「力」をふみちゃんに使ったエピソードも出てきます。そんなある日、事件が起きます。ほんとうはぼくのうさぎ当番の日だったのですが、風邪で休んでしまい、ふみちゃんに頼んで当番をかわってもらいました。そのため、ふみちゃんはうさぎ小屋で起きた事件の第一発見者になってしまいます。さらに、犯人によって尊厳を踏みにじられるような言葉もネット上にあげられます。それらのことによって、ふみちゃんの心はひどく傷つき話すことすらできなくなってしまいました。ぼくは、一族に受け継がれる力の使い方を親族のひとりである〔先生〕から教わり、その力を使って犯人に罰を受けさせようとします。

ぼくのふみちゃんに対する深い思いが、胸に響きました。

先生から授業を受けるように「力」のことを学ぶ場面が哲学の問答みたいで少し難しかったですが、主人公はいったいどんなふうに力を使うんだろうと最後まで結末の予測がつきませんでした。長い物語ですが、最後まで一気に読みたくなる本です。

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読んだ人:樹  葉

読んだ本:『わたしの空と五・七・五』  講談社  森埜 こみち作    2018年9月

 

この本は、第19回ちゅうでん児童文学賞 大賞受賞作品です。

中学一年になった空そ良らは、友だち作りがあまり器用にできない女の子。なんとなく見学に行った文芸部に行きがかり上、入部してしまいます。部員は、穏やかで頼りがいのありそうな部長の滝沢冬馬、実力派でスパッとした物言いの谷崎潤子、同じ一年生で素直な性格の小林静香、それに空良を入れてたったの四人。新入生歓迎句会を開くことになり、俳句の知識ゼロの空良も、自由に五・七・五と言葉を紡いでいきます。まず、そのプロセスが楽しい。俳句の入門書を楽しく読んでいるように、ページが進んでいきます。

ある日、空良は吟行の途中で、体育館の裏で同級生の颯太が、同じサッカー部の先輩からいじめを受けているところを目撃してしまいます。でも、颯太からは、「だれにもいうな」と口止めされます。そして、空良は心の中に抱えきれない思いを、句会に出す俳句によみます。

俳句を通じて、付き合い下手だった空良は、少しずつ変わっていきます。そして、友だちとつながりができ、つながった相手にも優しい気持ちが芽生えていきます。

読んでいて、ちょっと俳句を作ってみたくなりました。

「言葉には力がある」そう感じさせてくれるさわやかな作品でした。

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読んだ人:藤田富美恵                                                     2018年8月

読んだ本:もしも、この町で ①エキストラやりたい! 講談社 青い鳥文庫 服部千春/作

 

海辺の町に暮らす6年生のなぎさは、祖母と両親が経営する「民宿なぎさ」の3人兄弟の末っ子だ。あるのは

海と山だけの田舎町なのに「もしも、この町でロケがあったりしたら」など言いだして、高校生の姉に一笑に付されていたころ。東京から1週間の予約で、大きな車に乗った3人連れ男性客がやってきた。海開きには早すぎる5月、しかも2部屋の利用はありがたいが、客たちはスケッチブックを携えて町のあちこちを見て歩くだけ。

私もなぎさ家族と同様(この人たちの目的は?)なんて思い読み進めていくうちに、やがて客の1人は映画監督だと分かり、この町がロケ地の一つに選ばれた。しかも夏休みに行われる撮影では、なぎさたちもエキストラ出演することになり大はしゃぎ。

現在、私が住む大阪の空堀商店街にも、たまに映画やテレビのロケ隊がやってくる。そんなニュースを聞くと当日は私も商店街に出向く。選ばれた店はいつもと違った雰囲気の店に作り変えられ、テレビでおなじみのスターを見かけることもある。店の隅では商店街を歩くエキストラだろうか、老若男女が集まって指示を待っていたりもする。そんなとき私はいつも思っていた。

(ロケの下見の人達はいつやって来て、またエキストラはどのようにして選ぶのだろう)

これらの疑問は、なぎさをはじめクラスメイトの加奈や俊樹の言動で次第に分かるから、興味津々ページを繰った。ただ、ずっと気になっていたのは、なぎさの夢の中に繰り返し出てくる「とてもきれいな女の人」の正体だ。どうやらなぎさが「ユーキ」と呼ぶワケあり幼ななじみ北原勇気と関係ありそうだが、解明は以後のお楽しみらしく、次巻の出版が待ち遠しい。    

読んだ人:森木 林

読んだ本:『寅さん 人生の伝言』  生活人新書 NHK出版 岡村直樹 作       2018年10月

 

本書は、旅行作家の著者が、山田洋次監督の連作松竹映画『男はつらいよ』の主人公、車寅次郎の織りなす名言(迷言)を基軸に、フーテン人生観を綴ったエッセイのような不思議な読後感のファン本でした。

 同映画は、俳優名鑑の豪華キャストで、しかも渥美清さん没後の幻の49作目を経て、今年50周年にはついに山田監督が50作目に挑む!と発表されたばかりの驚きの長寿作品(ギネス登録)です。寅さん本は巷に溢れていて、どれも面白いと思うのですが、本書は薄く読みやすい頁数であるにもかかわらず、多様な視点で寅さん作品を分析し、時に突っ込み、ほぼ賞賛しています。巻末の全作品リストや随所の名場面写真(幻ロケ地の高知県には寅さん地蔵!)、家族論や物価変遷、マドンナベスト5だけでも読み応えのある濃密な一冊です。結局のところ、真のマドンナは妹のさくら(倍賞千恵子さん)なのでは、という分析も納得の展開でした。出発がテレビドラマだったことも初めて知りました。後半は次世代甥っ子編で、かつての『北の国から』の純クンが情けなくも頼もしく成長していくそうです。寅さん映画は独特の日本人的情緒とばかり思っていましたが、海外でも人気でウィーン編もあるのですね。

 ところが、ブラジルの方々は、なぜ日本人が国民的映画として騒ぐのかわからない、とのことで、その理由は「ブラジルじゃ、周りには寅さんみたいな奴が溢れているから、珍しくも何ともない」だそうです。地球の裏側には、寅さんがいっぱい……? ちょっと嬉しくなりました。秋の夜長にお目通し頂けますと幸いです。

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読んだ人:くまだえつこ                                              2018年7月

読んだ本:人生逆戻りツアー プレジデント社 泉ウタマロ/作

 

ある講演会に出かけたときに、紹介された本の中の一冊です。「今のままの自分でいいのだろうか。これから自分の人生で、何をして生きていったらいいのだろうか。」と思い悩んでいた時に出合えた本です。本の帯には「自分を変えたい人へ・・・」と書いてありました。この本との出合いが

その後の自分を本当に変えてくれたのです。

この本はついうっかり死んでしまった主人公が、人生を逆戻りして宇宙の真理に気づく愛と笑いの物語です。その中の一つに「自分自身の永遠の力を確信することこそが、宇宙を動かす鍵。」と書かれています。とても深い心理です。

主人公の妻には絵本作家のおばあちゃんがいました。おばあちゃんは60歳を過ぎた頃から絵を描き始めます。幼い主人公の妻に、「自分の中の宝物を見つけること。宝物は誰にだってあること。」を話します。おばあちゃんの言葉が、今の自分を支えてくれているのかもしれません。

 

この本には、たくさんの真理と宝物がつまっています。どんなことも、一番良い時に、出合うべきことと出合っているのだと思うと、人生の不思議を感じます。自分の人生が終わるとき、私はどんな人生逆戻りツアーを経験するのでしょうか。

                                        2018年6月

読んだ人:市中芳江

読んだ本:月の砂漠をさばさばと 新潮文庫 北村薫/作

 

 ささやかな、小さな物語を書くことに憧れている。いつか書けたらと思う。どれほどむずかしいことか、頭では分かっているつもりだ。だから、遠い憧れにすぎない。今のところは(と思いたい)。

 小さな物語を書くために必要なのは、まず、何よりも、きめの細かいざる。目の前でどんなことが起ころうが、どんな話の種が降ってこようが、人は身の周りから、自分が持ちあわせた器で受け取ることができる分しか受け取ることができない(ということは骨身にしみている)。小さなことを受け取るには、きめの細かいざるが要る。幸い、ざるのきめは鍛錬によって細かく整えていくことができる(だろう)し、ざるそのものの間口を広げることもできる(はずだ)。必要なものは、ほかにもまだまだ、たくさんある。言葉の香りや手触りのわずかなちがいを感じ取ることができる敏感な鼻、熟練した手指。なんだか分からないけど何かがちがうなと察知できる、高感度のセンサー、などなど。

 この本では、9歳のさきちゃんと、お話を作るのを職業にしているお母さんの日常が12話によって描かれる。そのうち「こわい話」では、こわいことって何があるだろうと考えたさきちゃんが、《山の斜面》がこわいと思ったことをお母さんに話す。お母さんは、さきちゃんに尋ねる。

 

  「場所が?」

   さきちゃんは、首を振りました。

  「ううん。言葉が」

  「ふうん」

  「《しゃ》が、こわいのかなあ?」

  「じゃあ《社長さん》は?」

  「こわくない」

   お母さんは、新聞をたたんでテーブルに置きました。

  「そういうことって、説明したらつまらないのよ。《社長さん》だって、実はこわい言葉かもしれ

  ない。――でも、今、さきは《山の斜面》を、なぜだか、こわいと思えた。お母さんはね、さきに、

  そういう感じる力があるっていうのが、とっても嬉しいな」

 

 意味があるのかどうかなんて分からなくても、さきちゃんの心が感じるものをこれだけ大事にできるお母さんだから、二人の生活には、ほんの小さなことから豊かな彩りが生まれる。お母さんの言葉を聞きまちがえたときも、布団に入ったさきちゃんに、お母さんができたてのお話を聞かせてくれるときも、さきちゃんに善行賞をもらったお母さんが、子どもみたいにはしゃいで喜んだときも、猫は飼えないとお母さんに言われたときも、きめが細かいさきちゃんの心は、いろいろなことをすくい取る。もちろん、そんなさきちゃんを見守るお母さんの心も。12話はどれも、誰の記憶にもありそうなささやかなできごとだ。それでいて、さきちゃんとお母さんだけのエピソードだ。

 本のタイトルは「さばのみそ煮」という話に由来する。ある夕方、お母さんが、さばを煮ながら歌う。

 

  「月のー砂漠を

   さーばさばと

   さーばのーみそ煮が

   ゆーきました」

 

 さきちゃんは、思わず「かわいい!」と感嘆の声をあげる。「広ーい広い砂漠を、さばのみそ煮がとことこ行くのって、とっても、かわいいじゃない」

 ご飯を食べながら、お母さんは静かに考える。さきが大きくなって、さばのみそ煮を作るとき、今日のことを思い出すかな。お母さん自身も、まじめだったお父さん(さきちゃんのおじいちゃん)が昔、一回だけふざけて歌った歌が忘れられなくて、今でも歌うことがある。

 その夜、寝てしまったお母さんの指をそっと握りながら、さきちゃんはつぶやく。「月の砂漠をさばさばと……、さばのみそ煮がゆきました……」

 わが身を振り返らずにはいられない。これまで私は、どれほどたくさんの小さなことを捨ててきてしまっただろうか。これからは拾っていくことができるだろうか。

読んだ人  かねこかずこ

読んだ本  星の子  朝日新聞出版  今村夏子/作                      2018年5月

 

 

「星の子」というタイトルに引かれて手にとった。

中学三年生のちひろの回想で語られる。病弱だった娘ちひろのため両親は、病を治せるという水を買いそれを手始めに、「あやしい宗教」に、のめり込んでいく。神の水と信じて、両親は、その水を含ませたタオルを頭に載せるという常識では有り得ない行為をし、ちひろにもさせる。

普通の感覚の代表として設定されたのか、現代子らしい姉のまーちゃん、それから、クラスメート、信者の子どもたち、その子どもたちに人気で、深く教団本部にかかわって悪徳商法をしているらしい青年、海路さんと良いお姉さんの昇子、次々に登場する人物たちが、行ったりきたりする時間の流れの中で語られる。一つ一つの出来事がとても意味のありそうなことなのにスルスルと一人称の語りで進んでいく。いつ、大きな山がくるのかと期待、とまではいかなくても、こういう書き方も有るのだと少しワクワクして読み進める、これが面白さのテクニックなのかと。振り回されるのを楽しんでいたが分かりにくくて、そのうち少々面倒くさくなってしまった。

教団の本質、組織が伏せられている(意図として?)ためか、教祖がどんな人物か、また教義など新興宗教自体が全く見えてこない。この新興宗教は、今までに、マスコミなどで、多々報じられた情報で得た読者の知識だけで想像しろ、丸投げ、と、いうことか。これを知っている、いないで、新興宗教を舞台にしている以上かなり読み取り方が変わってくると思うのだが。

まず始めに父をひきこんだ落合さんの霊感商法かと思ったが、彼は、かなり組織だった新興宗教の幹部らしい。だんだんと貧乏になっていくちはるの家、これは、教会に寄付をしているからか、信者であるために、いわゆる普通の生活が、収入、近所づきあいなども含めて出来ていないからなのか。姉は反発して家を出て行ったが、教団本部に行くのを楽しんでいるようにもとれるちひろの本心が見えてこない。帯に『大切な人が信じていることを、わたしは理解できるだろうか。一緒に信じることが、できるだろうか』とあったが、『わたし』はちひろのはずなのに、姉の独白かもしれないとさえ思えてくる。ちひろには、両親の思いに添いたい願いが強く感じられて、自分の置かれている状態に、余り葛藤が無いように読み取れるから。

ちひろが健康に生きられるために頑張ってきた両親だが、家を出た姉に対しては諦めたのか感情の高ぶりも無く、家族のため頑張っているように見えて、それは信心深い自分たちに酔う自己満足でしかないのかもしれない。クラスメートの前でそんな親を罵倒する先生、先生が悪者の立ち位置であるなら、それに対してかばってくれる友がいて良かったはずなのだが、やはり、ちひろには、前向きの発展的意志を感じられず、このままずるずると教団に関わるのではないかと思えてしまった。

流れ星が見える見えないのがキィーになる場面での、流れ星の重要性が今一つ分からない。その意味することは? 信者の子どもたちは、流れ星は信仰があれば見えるというが、ちひろにはなかなか見えない、見たくなかったのか。見えているはずの両親は、夜の丘の上で、ちひろと過ごすこの時を終らせたくないのか見えないという。この場では、ちひろは早々に見えるが、親をなだめるための振りなのか本当に見えたのか、この違いは大きいがよく分からない。

ちひろは高校進学のため、伯父夫婦に預けられるのかもしれないと思わせて終るのが、せめてもの明るい兆し。

ちひろは勿論、小中学校の友だち、信者の子どもたち、両親、姉、海路さんたちの問題、たくさんのおかずが出されている、それぞれの調理が仕上がる前で、主食であるちひろの思いも生煮え、何をどう味わったらいいのだろう。消化不良でも微かすぎても希望を見つけられれば、余韻のある締めといえるのだが、それまでに放り出されたままの問いがあまりにも未解決なので、余韻に浸れず本を閉じることになった。結局、作者は人間関係をどう描きたかったのだろうか、この悩ましい読後感は味わったことがない。

読んだ人:秋川イホ

                                     2018年4月

読んだ本:みさと町立図書館分館 産業編集センター 髙森美由紀/作

 

4章から成る物語。みさと町立図書館分館に勤める山本遥は33歳、独身である。3年前脳梗塞で母親が他界し、実家で父親と暮らしている。隣に住むのは、独り暮らしの小山のおばあさん。豪邸を建てるも、息子夫婦と一緒に住むことが叶わなかったおばあさんである。遥とドケチな小山のおばあさんとの掛け合いが時に面白くもあり、妙に切なくもあり、申し出を断れない遥や小山のおばあさんの素直でない偏屈な性格が自分と少し重なって見えたりもする。小山のおばあさんからもらった、もはや化石と化したシワシワのりんご。物を捨てるのも惜しい小山のおばあさんなのである。当然食べられる筈もなくりんごは庭に埋められるのだが、小山のおばあさんが亡くなった後、庭から芽を出す。時、季節の移り変わり、そして抗うことの出来ぬ変化…… 重いことも書いてあるのだが、緩やかな時間の流れがそれらを透明に変えてくれる。

田舎にある図書館分館を訪れる一風変わった人たち。図書館分館に勤める30代後半独身女性の香山さんと、30歳独身男性の岡部主査。少し偏ったところのある2人だが、彼らもまた各々悩みを抱えながら暮らしている。様々な人がいてその数だけの家庭があり生活がある。母親を亡くした悲しみを父親とともに乗り越えて行く、遥もまた同じくである。

みさと町立図書館分館で働く遥を中心に、人と人との繋がりが丁寧に描かれている。登場人物の息遣いや心の変化が、ゆったりとしたリズムで胸に刻まれていく。心地よかった。最後にあった遥の言葉は『希望』に思えた。ほっとした。

 

今、私は-。

紙袋の中で、返しそびれていた手紙とチョコレートが跳ね、胸のリズムに重なる。私にはその音がなぜかこう聞こえた。

ころんで ないて はらへって このよはそれほどわるくない。             本文より

読んだ人:うちだちえ

                                  2018年3月

読んだ本:満月の娘たち 講談社 安東みきえ/作

 

 

 

 言葉で気持ちを伝えることは難しい。同じ言葉でも、伝える側や受け取る側それぞれの立場、状況によって言葉の意味合いが変わる。それが母娘の場合、言葉がより厄介な状況を作り出したり、より愛を求めるようになったり、より傷つけたり。母と娘の関係はとても繊細で、かつ良くも悪くも強固ということか。

 主人公の志保と、幼なじみの美月と祥吉は、古い屋敷の持ち主であるミニチュア作家の繭と交流をはじめる。その古い屋敷で何度か幽霊らしきものに遭遇する。それは、繭を守ろうとするお母さんの幽霊なのか。

 中学生という多感な時期に、親の一言は子どもの心にストレートに響く。

「足りないって言葉をママはあたしによく使う。ママの中では、あたしは足りないものだらけらしい」と思う志保。お兄ちゃんばかりかわいがられていると思う美月。実際、玄関にはお兄ちゃんの写真ばかりが並んでいる。

 母親に心無い言葉を投げかけた繭。その後、あやまる機会のないまま母親は亡くなり、繭は心が病むほど苦しんでいる。聞きたくなかったこと、言いたくなかったけど言ってしまったこと、きずつけたこと、なぐさめられたこと、そういう言葉の中で、私たちは生活している。

 だから? だから、どう?

 そういうことを、それぞれの人物の立場から考えさせられた。

「まさに怒りに燃え立つ鬼のようだった」と、なりふり構まず、雷雨の中を助けに来てくれた美月の母親を、志保はそう例えた。ピンクのハート型の愛もあるけれど、鬼のような愛だってあるのだ。一見、鬼のような。

読んだ人:松浦信子

                                    201年2月

読んだ本:『すべての見えない光』 アンソニー・ドーア 新潮社

 

 1944年、第二次世界大戦中のフランスのブルターニュ地方。エメラルド海岸にある古くからの城塞都市サン・マロは、戦火を浴びて壊滅状態にある。

 主人公の少女マリー・ロールは、幼い時に視力を失い、パリの国立自然史博物館の錠前主任をしていた父親とナチスの侵攻から逃れて、大叔父の暮らすサン・マロに避難して来る。だが父親は秘密の使命を受けていた。それは鉱物学館の奥深くに納めてある「炎の海」と呼ばれるダイアモンドを、ナチスから守る事。父親は娘のために、精巧なサン・マロの街のミニチュア模型を作る。道、路地、建物など、娘がこの町で生きる事が出来るように。

 

 もう一人の主人公のヴェルナー・ペニヒは、ドイツのエッセン地方の外れにある炭鉱製鉄の町で、妹のユッタと孤児院で暮らして居る。彼は廃品の中から壊れたラジオを見つけると、三週間かけてラジオを組み立て直す。イヤホンから流れるフランス人の子供向けの科学の放送は、ヴェルナーを力学原理の世界へと導いて行く。やがて彼の才能が買われ、暗号解読、ロケット推進などを学ぶべく、憧れの国家政治教育学校に入学するのだが……

色濃くなる戦争の気配が、この全く違世界に生きる二人の人生の物語を変えていく。僅かな時間だが、電波を通して聞こえるあのフランス語の声が二人を結びつけていく。

そこにダイアモンドを巡るサスペンスの要素も加わり、526頁の物語が完結する。

ピュリツアー賞受賞、日本翻訳大賞受賞の本だが、余り読み易いとは言えない。

物語は主人公たちの人生の間を行き来して語られるし、年代も交差し、それが数多くの断章で綴られる。だがどの登場人物も細やかに個性的に描かれ、自然と人間との関わりに詩情を感じさせられる。それに文章が全て現在形で書かれている事、これは新鮮だった。

過去の戦争や、紛争、民族闘争などを描いた本が、最近多く出版されている。作者は決してそれらの経験者では無い。その地に立ち、調べ、感じ、想像する。歴史と言うものは、時が経って初めて、多角的な視野で語ることができると言う事なのだろう。

読んだ人・繁内理恵

                                                              2018年1月

読んだ本:ぼくらの山の学校 八束澄子 PHP出版 

 

  主人公の壮太は小学四年生。友達とコンパスでふざけていたことがきっかけで、「何をするかわからない乱暴な子」というレッテルを貼られてしまい、学校からも友達からも浮いてしまう。家庭でもイライラが募るばかりだ。そんなとき壮太が見つけたのが、「空高町山村留学センター」だ。日本のあちこちからやってきた小学生たちとの共同生活。地元の人たちと仲良くなり、魚釣りや虫取りに夢中になる毎日は、壮太の心と体をたくましく成長させていく。

 四国山地に抱かれた自然豊かな山村センターでの日々は、「毎日が急がしすぎて、楽しすぎて、泣くひまなんてない」毎日だ。その喜びを、八束は、色濃く描いていく。魚釣りをする壮太は、自分と川や山の空気が、一つに溶け合うような不思議な感覚を覚える。心と体が、隈なく満たされる。それは、ゲームのヴァーチャルな世界ではなく、心と体が共鳴して奏でる音楽のような喜びだ。その喜びが子どもの五感を目覚めさせ、豊かな感受性を伴った知性として実っていく。その手応えが、とても感動的だ。

壮太だけではなく、雄大も沙也もたくとも、それぞれが事情を抱え、センターに来た子どもたちだ。そんな仲間たちと過ごした一年は、壮太に確かな自信となって根を下ろす。「みんなで居場所をつくってきた。また新しいメンバーと居場所をつくればいい。」壮太のたどりついたシンプルな答えは、壮太のこれからの人生の羅針盤になるに違いない。山の学校で暮らす子どもたちを見つめる八束の眼差しは優しく深く、子どもだけではなく、人間が生きることの根源にまで届いて、鮮やかだ。その眼差しに、生きることへの密やかで熱いエールが潜んでいることが、私の心も熱くする。

 壮太に乱暴な子というレッテルを貼った先生は、今、目の前にいる壮太自身を見つめていなかった。彼女が見ていたのは、「乱暴な子」が起こすかもしれない面倒な未来だけだ。そんな大人の眼差しを、子どもたちは敏感に察して、壮太を排除してしまう。集団の中で、一番強い人の眼差しに自分を同化させる。そんな訓練を積んだ子どもたちが描く未来は、息苦しくはないだろうか。一人一人の輪郭が濃い山村センターとこの集落では、人との関わりも、また濃い。全身でぶつかり、喧嘩し、抱き合って眠る子どもたち。その子どもたちを、信頼して見守るセンター長や地域の大人たちの眼差しは、そのまま八束が子どもを見つめる眼差しなのだろう。学校に呼び出されたときに、壮太を信じることが出来なかった母の動転ぶりを、私はかっての自分自身のように思いながら読んだ。思春期を迎えようとする子どもとの向き合い方も含めて、ぜひ大人の人にもこの作品を読んで欲しいと思う。人間という存在を、ありのままに見つめようとする誠実さに、心励まされるのではないだろうか。

                                                                                       2017年12月

読んだ人:石川純子
読んだ本:ある奴隷少女に起こった出来事 大和書房

     ハリエット・アン・ジェイコブズ/作 堀越ゆき/訳

 新聞の書評を見て、図書館に注文。本が届いて早速読み始めたわたしは、Ⅰページ目から心をわしづかみにされてしまった。やらなくてはいけない仕事をほったらかしにして読み続けた。読み終わって時計を見ると、夜中の2時になっていた。私は、本の中でリンダと供に怒り、苦しみながら彼女の人生を追体験した。そして、この物語はフィクションではなくリンダが経験した出来事だと知り、驚愕した。こんなひどい事がこの世の中にあったのだと。                   

                       ★.

 奴隷として生まれた少女におきた残酷な運命。人種の垣根超えて助けようとする人々への感動。保身のために裏切る人たちへの落胆。読み手の心を揺さぶる出来事が、次から次へと起こる物語である。「ある奴隷少女に起きた出来事」の主人公の生涯をたどる中で、現代を生きるわたしたちには思いもよらない言葉に出会い、深く考えさせられた。黒人にも所有され売買される奴隷と、自由黒人といって、所有者に身分を開放された者、その子どもたち。自らの力で自らを所有者から買い自由黒人になる事も詳しく書かれている。

 昔「ルーツ」というテレビドラマで黒人奴隷たちの理不尽に扱われる物語を見た事があるが、それを思いだした。15才の主人公のリンダは、所有者である好色で陰険な医師によって性的な虐待を受けるが、彼女に逃げるすべはなかった。しかし、冷静で知的な彼女はその運命に耐え抜き、あらゆる知識を使い、やがてアメリカの北部への逃亡に成功する。

 この物語は、約150年前に、アメリカで自費出版された。当時は、奴隷は字の読み書きはできないものとされていたのでリンダ・ブレントというペンネームで出版された。本は、数奇な運命をたどり、150年の歳月を経て日本の私達の手元に届いたのだ。今、この本は、アメリカの古典ベストセラーランキングで、なんと11位にランクされている。ちなみに、10位が「宝島」12位が「ジェーン・エア」13位が「ディビッド・コッパフィールド」である。「ある奴隷少女に起こった出来事」は、世界中の少女たちに読まれている「小公女」「ジェーン・エア」「若草物語」と同時代である事にも考えさせられた。

 翻訳した堀越ゆきさんは、「この本は、現代少女の新しい古典文学である」と。まだまだ、世の中には私達の知らない本がたくさんあるに違いない。私達が知っていると思っている事なんて、たかが知れているのだ。

2017年11月

読んだ人:青山由紀子

                                                                                                         

読んだ本:あひる 書肆侃侃房 今村夏子/作

 

あひるを飼い始めた家の日常が変わっていく様子を、娘の視点で描いています。

父親が譲り受けたあひるののりたまを庭で飼い始めると、近所の子どもたちが見に来るようになります。

静かだった家がにぎやかになったことを両親が喜びます。

子どもたちは家の中に入ってきて、おやつを食べたりするようになり、家族の生活が変わっていきます。

のりたまは体調を崩して入院し、別ののりたまとなって戻り、二羽目も体調を崩します。

三羽目ののりたまも、最後には死んでしまいます。

のりたまがいなくなっても子どもたちが出入りし続ける家に、弟夫婦が現れます。

のりたまと入れ替わるように移り住むことになった弟家族とこの家の今後が、気になります。

平凡な人たちの日常に存在するずれや変化に共感するとともに、淡々とした話の中に残酷さや恐ろしさを感じ、読後の気持ちは静かではいられませんでした。

    2017年10月

読んだ人:とうや あや

読んだ本:誕生日を知らない女の子 虐待―その後の子どもたち

      集英社文庫 黒川祥子/作                                                                                       

 

 「美由ちゃんは、誕生日を知らなかった」

  衝撃的な一文で始まるこの本は、虐待を受けた児童の実情について実際に取材し、ルポ形式でまとめたものである。

 児童虐待。この言葉は、もはや身近なものとなってしまったが、一般人が実際に被害児童と接することは難しい。しかしこの本を読むことにより、児童虐待についてより深く認識することができる。

 本書では、四人の被害児童に対し取材を行っている。彼・彼女らの中には、実母に万引きを強要された、タバコの火を背中や尻という見えないとこばかりに押しつけられた、言うことをきかないからといって割り箸で目をさされたなど、過酷な体験を経た者がいる。

​ 本書はこのような過酷な体験にも目を背けず、またその後の影響や回復課程における課題についても詳細に

述べてある。 

 例えば上記のような被害を受けた児童は、脳に器質的な変化が生じるそうである。つねに環境はサバイバル状態であり共感性などを発達させていては生き残ってはいけない。そこで遺伝子の配列を変えずに、遺伝子情報の活性に変化が起きるそうである。すると、いくつかの遺伝子のスイッチが入り、脳の器質変化となるのである。

 これは、発達障害と言わざるを得ない状態をも作りだす。なんと虐待とは残酷で過酷な結果をもたらすのであろう。

​ また無事に保護されても、施設の受け入れ体制にも問題があるそうだ。ある施設では、出されるクリームパンが腐敗していることが多く、「クリームパンはすっぱいものである」と認識している児童まで存在する。

​ 加えて、虐待の後遺症も看過できない、と著者は述べている。つまり、人格形成期に上記の過酷な体験をしたために、精神疾患の罹患や、情緒不安によるコミュニケーションの支障、という深刻な後遺症が生ずるのである。 

 一見、本書は救いようのない話であるようにも思える。確かに、虐待の悲惨な実情や、厳しい回復への道のり等、ともすれば絶望してしまいそうである。しかし著者は、希望への言及を決して忘れてはいない。かえってこの本を読んだ後は、子どもたちの笑顔、確かな将来を感じずにはいられないほどである。

 生き延びた子どもたちの過去は、言うまでもなく重い。虐待が子どもに何を及ぼし、何を奪うのか。それを見つめる著者の旅は、まだまだ終わりそうにない。

 なおこの本は、第11回開高健ノンフィクション賞を受賞した。

2017年9月

読んだ人:楠章子
読んだ本:ミラクル・ファミリー 講談社文庫 柏葉幸子/作       
     

 

 ファンタジーは空想の物語である。現実にはありえないことを描く。少女時代に大好きだったファンタジー作品は『霧のむこうのふしぎな町』だった。柏葉幸子さんのデビュー作にして代表作だ。『霧のむこうのふしぎな町』の主人公のリナは、白地に赤い水玉模様の傘を追いかけるうちに、霧の谷にあるふしぎな町へ辿り着く。そこには風変りな住人たちが……ピコット屋敷のおばあさん、本屋のナータ、かわり者のトーマス、発明家のイッちゃん。霧の谷もふしぎな町も風変りな住人たちも、実際には存在しない、これは作り話なのだとわかっていた。でも、もしかしたらこれは本当かもしれないと思いながら、夢中になって読んだ。成長して、ファンタジーの魅力というものを考える時、まず柏葉幸子さんの御本が頭に浮かぶ。

 さて、『ミラクル・ファミリー』は一九九七年に発行された短編集で、九つの家族の物語が収められている。そして、どの物語も柏葉さんらしいファンタジー作品である。真夜中に開館するミミズクの図書館も、お助け神さんも、作り物なんだとわかっているが、やはりもしかしたら……と思ってしまう。それが物語の余韻につながる。

 「木積み村」では、『信太妻』の話を出すことで架空の木積村を実在するように感じさせ、登場する人物を本当にきつねかもしれないと思わせる。本当かもしれないと感じさせる仕掛けは、この物語が一番しっかりしている。ゆえに、この短編集の中で、「木積み村」が芯になっているように思う。芯がしっかりしていると、見た目だけがたぬきに似ていることで、親父を本当にたぬきかもしれないと信じてしまう「たぬき親父」のような軽い仕掛けの物語も、春を呼ぶ緑の神の女の人を、ずっと川辺で待っている「春に会う」のようなかなり現実味の薄いものも、もしかしたらの方向に引っぱっていく。

 私は、「ザクロの木の下で」が最も好きだった。鬼子母神のお社のある町。ザクロの木のある保育園で、明子さんはふしぎな保育士のような女性から赤ん坊を託される。主人公のわたしとその兄は、鬼子母神のお社にまつわる捨て子と貰い子の話を父親に聞き、もしかしたら自分たちも……と考える。短いながらも心の深いところをゆさぶるような物語で、読者を包み込むような温かさに感動した。カラスがねぐらに帰るころ、捨て子と養い親が出会うという設定は、すばらしいと思った。これもどちらかというと現実味の薄い物語だが、この短編集の中の一つという位置においては、嘘っぽくチープにはならず美しい空想物語として存在している。

 今回、手にしたのは二〇十〇年発行の文庫版で、カバー装画は銅版画家の山本容子さん。もともと大人に向けて書いたのかなと感じられる短編集だったが、文庫サイズになり、ますます大人が楽しむ一冊という感じ。通勤電車の中で一編、昼休みにコーヒーを飲みながら一編、眠る前にベッドの中で一編と楽しむのもいい。

                                                                                                                           2017年8月

読んだ人:エイ子ワダ

読んだ本 :ロボット・イン・ザ・ガーデン 小学館  デボラ・インストール/作 松原葉子/訳

 壊れかけたロボットが自宅の庭に座っている所から始まる。イギリス南部の村、近未来の話。家庭にアンドロイドがいる(もちろん人工知能搭載で)。主人公ベンの家でも妻エイミーは、義姉の持っている最新のアンドロイドが欲しいと思っている。掃除機をかけたり、朝食を作ったり、子どもを迎えに行ったりするらしい。ベンは二人の生活には必要がないと考えている。妻は法廷弁護士、夫は両親が十分な遺産を残し亡くなったばかりで、獣医を目指して研修中のはずの男。家でウジウジしている。表紙絵が酒井駒子さんでかわいい。ロボットの名はタング。

 最初はベンにもタングにもイライラさせられる。(ベンがまったくもう!なのである)このイライラを誰にぶつけようかと思っていたら、ほら、エイミーだって家を出て行くじゃないか。裏表紙に書いてある『中年ダメ男とぽんこつ男の子ロボットの珍道中』と。腹を立てながらも、壊れそうなタングをどうにかしないと……と、見守らずにはいられない。世界をまたにかけた旅(お金があって良かった)を心の中でいっぱいツッコミながら、ついて行ってしまうのだ。で、読後考えてしまう。

 生きているって、何やろか……。

                                                                                                                       2017年7月

読んだ人 : おちまさ子

読んだ本 : オレさすらいの転校生 理論社 吉野万理子/作

 同じ学校なんてない。どこの学校も、それぞれ変わったところばかりだ。父の仕事の都合で十回も転校している主人公、曲角(まがりかど)くんがつぶやく。

 曲角くんは小学四年生。物語の始まりは十一回目の転校初日。登校中、いきなりくねくね歩いている生徒に追い越される。この学校は授業に競歩(きょうほ)を取り入れている。競歩とは、歩く速さを競う競技だ。ただ歩くだけでなく、ルールがある。どちらかの足がいつも地面についていること、地面についた足は、地面と垂直にひざをのばすこと。

 競歩を知らなかった曲角くんは、クラスメイトに「キョーホってなに?」と聞く。みんなにおどろかれるが、曲角くんは知らなかったことに対して、すまない、とあやまる。そして真剣に競歩に打ち込み始める。素直で礼儀正しい、真面目な少年なのだ。このはっきりした性格がいい。

 この学校は毎年秋に、となり町の学校と競歩対決が行われる。体の大きい曲角くんは選手に選ばれるが、始めたばかりの彼は伸び悩む。

 心に傷を負っている少女も、重要なキャラクターとして登場する。この少女はいったい過去になにがあったのか、少しずつ明かされていく。

 そして気になる謎も用意されていた。それは父親が指導する牛丼屋の店長の存在だ。若い頃、競歩をやっていたらしいが、どうもはっきりしない。ただ者じゃないぞという雰囲気が漂う。どの登場人物もつながっていて、後半は謎が一気に明らかになっていく。

 そしてラスト、隣町の学校との競歩対決。競歩に対して覚めた目で見ていた一部のクラスメイトたちも、選手たちを一丸となって応援する。それは曲角くんがきたことが影響していた。一生懸命練習する彼の姿に、みんなの気持ちがだんだん一つになっていったのだ。対決が終わると、曲角くんはまた転校していく。ほろりとさせられる場面だ。

 この本を読んで、登場人物たちの性格が物語を作っているのだと、改めて思った。

 2017年6月

読んだ人:北ふうこ

読んだ本:忘れ貝 文藝春秋 三咲光郎/作

 ちょっとしたご縁があって作者の方とお近づきになり、拝読させていただいた。

交通事故で子どもを亡くした主人公の美奈子と、震災で両親を亡くした少年・勉。

勉は偶然にも美奈子の恩師の孫であった。

 同じような境遇の者は、呼び寄せられるのだろうか。この二人が出会ったのは、なんとも不思議な縁である。

 「忘れ貝」というタイトルが、古典好きにはたまらなく興味をそそる。読み進めると、思った通り紀貫之の土佐日記が出てくる。

 「忘れ貝」は「恋しい思いを忘れさせるという貝」のことである。

 「寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝降りて拾はむ」という歌に対し、

 「忘れ貝拾ひしもせじ白珠を恋ふるをだにも形見と思はむ」と返す場面がある。

 幼い子どもを亡くした貫之とその妻が、「忘れ貝を拾う」のか、「拾わない」のかをお互いが歌にするのだ。

 「恋しい人を忘れたい」という思いと、「忘れることはできない」という思い。この二つの思いは、なにも別々の人間の思いだけではなく、一人の人間の心の中にだって存在する。どちらか一方に決めてしまわなくても、二つの思いが交錯することがあってもいいはずだ。

前を向いて歩いていくことは忘れてしまうことではなく、大切に思い続けることはいつまでも閉じ籠もることではない。

 子どもを亡くした喪失感から抜け出せない美奈子が、勉との関わりの中で少しずつ癒され、最後にようやく夫と子どもと三人で暮らしていた神戸の町を訪れることができるようになる。小さな、しかし大切な一歩。この一歩をきっかけに、美奈子は前向きに進んで行けるのだろう。きっと子どももそれを望んでいるはずだから。

 不思議な縁で出会う二人の物語だが、この本に私が出会えたことが、なによりも不思議な気がしてならない。

 2017年5月

読んだ人:うたかいずみ

読んだ本:海に向かう足あと 角川書店 朽木祥/作

その表紙を初めて見た時、やわらかな色彩の風景の中からは、打ち返す波の音が聞こえてくるようでした。

児童文学作品で数々の賞を受けている作者にとって、『海に向かう足あと』は初めての一般小説となります。

いわゆるディストピア小説とよばれる近未来の作品です。

 

三浦半島の風色湾を母港とする競技用ヨット月天(がってん)号のクルーは、照明デザイナー、公務員、研究者、フリーターなど世代も職業も違う6人の男性たちです。

ヨットの維持費を捻出するためのつつましい暮らしぶりや家族や恋人とのやりとり、そして、クルーそれぞれの性格が丁寧にリアルに描かれて物語の前半は進んでいきます。そんな何げない暮らしの中で、彼らは美しいヨットを譲り受けることになります。名付けて風の竪琴『エオリアン・ハープ号』です。

 

憧れのヨットを手に入れることができ、クルーたちは翌年のゴールデンウイークに開催されるレースに出場することを決めます。月待諸島の中に浮かぶ三日月島から出発するレースです。

彼らが少年のようにわくわくと高揚した気持ちで準備を進めるようすは、平和の象徴にようにさえ思えます。

 

しかし、海を愛しヨットを愛すクルーたちの穏やかな日々の描写のところどころに、恐ろしい何かひそんでいるような文章表現が挟み込まれています。

やがてレースに向けて約束をしていたクルー数名や家族たちがいくら待っても三日月島に現れず、通信手段も遮断される事態となります。

 

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかっていただろう。こんな日が来るかもしれないって」クルーのひとりが、そうつぶやきます。

緊迫の場面に出てくる絵本『どろんこハリー』『きいろいばけつ』や、薔薇の種類『ピエールドロンサール』などの具体的な名前は、状況をよりリアルに立ち上げる効果を持たせています。

 

恐ろしいほどの幸せ

我々がどんな世界に生きているのか

はっきりとしらないでいられるのは

 

作中に出てくる詩は、ノーベル文学賞を受賞したポーランドの女性詩人シンボルスカのものです。

 

被爆二世の作者が声高にさけぶのではなく、むしろ静かなタッチで描く世界観に圧倒されました。

作品を読み終えて、あらためてカバーを広げてみました。

赤く染まる空と海に向かって漕ぎ出していく『エオリアン・ハープ号』。そして、クルーたちのゆく末を見守るようにじっと立ちすくむゴールデンレトリーバーのリク。その陰は、黒々とした防波堤の陰とつながっています。そこには、さざ波の音すら聞こえない『無音』の世界が広がっているとしか思えませんでした。

 

物語は近未来ではなく、まさに今この時、どこかで起こっている現実のできごとなのかもしれません。

けれど、その先の未来を希望に変えることができるのも、人の力だと信じたいです。

『海へ向かう足あと』というタイトルも、深く余韻を残します。作品後半のようすは、お手に取ってぜひ読みいただけたらと思います。

 2017年4月

読んだ人:森くま堂

読んだ本:大林くんへの手紙 PHP研究所 せいのあつこ/作

 

五十嵐文香は、読書感想文を書くのが苦手である。

「-こんなポジティブな主人公が友だちだと、引き立て役になりそうで、私はとてもいやです。

 -戦う勇気のある人に、世界は全部まかせたいと思います。

 -みんなから好かれる人って、本当はみんなから怖がられているんじゃないでしょうか。」

これが本音。けれど、本音を書けば良い点数がもらえないことも、小学校6年生ともなれば、わかっている。

空気を読んで、点数がもらえるよう感想文を書くのは容易い。良心に謝罪するように、シャープペンを浪人回ししながら、感想文を書く。

文香のクラスに、長期欠席を続ける大林くんがいる。ある日、みんなで大林くんへ手紙を書き、家まで届けようという計画が持ち上がる。中心人物は、大林くんに反省文を強要し、長期欠席の原因を作ったと噂される担任の笑子先生と、いつも正しいことを言う宮子。一度は感想文のように手紙を書いた文香だが、どうしてもうそくさく、それを届けることができない。ようやく、「いつかちゃんとした手紙を書きます」と書く。

文香は、ぽっかり空いた穴のような大林くんの席に座り、大林くんがどんな景色を見ていたのか、想像をめぐらす。大林くんの心に迫ろうとする。

思春期とは、他者と自己が異なる存在であるとあらためて認識する時期だ。そしてまた、ある者は異なる、存在であるにもかかわらず、底流にある集団的無意識を意識し始める時期でもあるのかもしれない。

「せいのあつこの作品は沁みる」と言った人がいる。沁みる! なんてぴったりくる言葉だろう。

なぜなら、せいのの作品はいつも、心の淵に立ち、その奥へ奥へと手のばしているように思われるからである。本音と建て前、善と悪、いる、いらない、使える、使えない、役に立つ、役に立たないと分けなければ前に進めない現実。が、それを超えたところにある、人類に共通の領域。せいのは、それを青空と表現し、建て前の権化のような宮子の(斜め後ろにある廊下の窓のむこうにさえ青空がある)と書いている。

文香の最後の独白は、象徴的だ。

「わたしは空を見上げた。青空。学校の上を、そして、わたしがいるこの場所を。大林くんの家がある住宅地の上を。そして、もっと、ずっと遠くのほうまで。ひとつの、大きな、大きな、青い空が広がっていた。」

最後に、蛇足ではあるが、先日 逝去された谷口ジロー氏 「父の暦」最終頁のセンテンスを記しておきたい。

「郷里は……いつでもどんな時でも変わらずそこにあった。私は思う……郷里に帰る……のではない、いつの日か郷里が、それぞれの心の中に帰って来るのだ」

心のなんと広大なことか! 青空のなんと深いことか!

 2017年3月

読んだ人:中川なをみ

読んだ本:星空ロック あすなろ書房 那須田淳/作

 

那須田氏の作品を読んだのは、これで何冊になるだろう。

相当数になると思うが、ただの一度も裏切られたことがない。

高学年のものも低学年のものも、読者を巧みに作品世界に誘いつつ、最後まで興味を抱かせ続ける。

『星空ロック』も例外ではなかった。

この作品のあらすじを簡単に説明するなら、夏休みに、両親がいるスイスへひとりで旅をする話である。家族と合流するまでの4日間に、大家のケチルに頼まれたことをしたり、現地で知り合った人とロックバンドを組んでフェスにでたりしている。

 

作者は今回も豊かな教養を嫌みなく活用しながら、メッセージを重んじている。これは児童文学の王道ともいえる手法である。

作家はベルリンに在住しているが、彼の地の地理や歴史に精通しているのか、ドイツに関わる素材をよく使う。特にナチについては、作品の要所で実に手際よくテーマと絡ませては作品世界を深くしている。

 

この作品で印象に残った語句を以下に挙げてみる。

 

「宇宙の音楽」

 万物のひとつひとつが音譜で宇宙を構成している。なにかが欠けたら宇宙の  音楽は不完全になってしまう。 

 (生きてきた意味が少しはあるかもしれないと、慰められる)

 

「田中正平」

 19世紀、ドイツで活躍した音響学者。

 純正調のパイプオルガンを作った。

 

久しぶりに、たっぷりと作品世界を堪能させてもらった。

 2017年1月

読んだ人:服部千春

読んだ本:かぶきわらし 出版ワークス/発行 河出書房新社/発売

読んだ本:庄司三智子/文・絵 古井戸秀夫/解説

 

 これは、歌舞伎の魅力を子ども読者や歌舞伎初心者にわかりやすく楽しく紹介するしかけ絵本です。今までなんだか敷居の高い難解さから尻込みしていた人に、歌舞伎を身近に感じ伝統芸能に親しみを感じてもらえるような楽しい作りになっています。

 

 ナビゲーターは、芝居小屋に住むという不思議な子ども、ざしきわらしならぬ、かぶきわらしです。彼がおもしろい仕掛け一杯の舞台を案内し、楽屋・女形・黒御簾などの専門用語や、早変わりの技、江戸時代から続く歌舞伎の歴史をやさしく解説してくれます。

 

 最初に描かれる演目は「白浪五人男」。色鮮やかで美しいしかけ絵本を開いてみると、圧巻のダイナミックな舞台が縦横に広がります。

 

 「知らざあいって きかせやしょう 浜の真砂と五右衛門が 歌にのこせし盗人の 種はつきねえ七里ヶ浜……」この有名な弁天小僧の口上だけど、今どきの子は知らないでしょうね。

 

 そのむかし、おばあちゃん子だった私は、歌舞伎や文楽や能をまったくわからないながらもおばあちゃんといっしょにテレビで鑑賞し、古典落語に笑っておりました。あの頃は今よりずっと伝統芸能の放映が多かったのだと思います。

 

 これらの日本の伝統芸能が年々すたれいくのは寂しいばかりです。そのためにも、このような初心者にもぐっと敷居を低くした、絵本というやさしい解説本が出されることは画期的な試みだと思います。

折から年末の京都の顔見世興行に行ってきた私です。その前にこの絵本を入手していたら、もっと歌舞伎を楽しめたかもしれません。これから歌舞伎を観に行ってみようと思う人には予習本にもなるでしょう。ぜひお手に取ってみてください。

 2016年12月

読んだ人:中谷詩子

読んだ本:セカイの空がみえるまち 講談社 工藤純子/著

 

「外国に行って、その国の人たちに取り囲まれるって想像してみなよ。そりゃ怖いさ。しかも、自分はなにも悪いことをしていないのに、日本人ってだけで攻撃されるんだからね」

 ヘイト、差別、いじめを真っ向から捉え、そこからはいあがる強い姿勢、生き方を深思に描いた物語だ。

 

 エクスポジションがいい。

 すぐにイメージがふくらんで、活字を追いたくなる。

 

 学校からの帰り道、まちがって立ち寄った新大久保駅。

 空良(そら)がすむ上北沢とあまりにも異なった光景のまち。さまざまな国籍や生活をもった人々が暮らすまち。コリアンタウン。

 そこで彼女が目にしたのは、大人があらわにする他国の人への差別意識。ヘイトスピーチ。

 そんなまちの一角にあるアパートで、自分の母親がどこの国の人でどこにいるかもわからない中で、父に反抗し、ひとり暮らしをしているクラスメイトの翔。

 父親が失踪し、そのことが原因でいじめを受けている空良。

 新大久保がきっかけで空良と翔の距離は近づく。

 空良は吹奏楽部でトランペットを、翔は野球部で甲子園に出場することを夢みながら、ふたりは学園生活でおこるさまざまなできごとに翻弄されつつ、やがて自分たちの家族の問題から目をそむけるわけにはいかないことに気づく。

 

 現代社会においてそれぞれが抱える問題は、複雑且多様で重い。

 身近な日常生活の中で。果ては戦争やテロに至るまでさまざまだ。そのような問題に巻き込まれるのは、子どもと弱者が多いことにも注視したい。

 空良と翔の家族の問題も、彼ら自身が引き起こしたものではない。

 そんなふたりをそっと包み込み、明日への希望をのぞかせてくれるまちがある。

 憎しみやしがらみから放たれ、新たな意識を芽生えさせてくれるまち。東京コリアンタウン。

 せつなくも愛にあふれた人たちに支えられて、明日への光を見出す。

 

 妥協をゆるさない真実や心理を無理なく紡ぎあげた作者のまなざしは、深く、激しく、そしてやさしい。

 2016年11月

読んだ人:安田夏菜

読んだ本:小やぎのかんむり 講談社 市川朔久子/著

 

 この物語は、静かに「価値観の聖域」に踏み込んだ作品だ。同時に、あくまで子どもの魂に寄り添おうとした物語だ。

 中学3年の夏芽は、支配的な父から逃げるように、お寺のサマーステイに参加する。そこには親から虐待を受けた5歳の雷太もいた。寺の住職、その孫の美鈴、住職見習の穂村さん。宝山寺の大人たちは、ふたりを温かく迎え入れてくれる。おいしい麦茶。ツヤツヤのトウモロコシ。山羊たちの鳴き声。つかの間の、安らぎに包まれるふたり―—。

 しかし、その日々にも親の影はちらつき、ずかずかと侵入さえしてくるのだ。

 

「親は子を慈しみ、子は親を慕うもの」この法則じみた価値観に、心を踏み荒らされた子どもは多い。古くは「孝行」の名のもとに。現在は「なんだかんだ言っても、やっぱり親子なんだから」という言葉と共に。歪んだ「支配欲」を愛にすりかえている親は確かに存在する。ずっと支配されてきた子は、親に歯向かうすべを持たない。「悪いのは自分である」ということを、刷り込まれ続けているからだ。

 そんな親たちも、確かに不幸な人たちかもしれない。しかし住職は言う。「苦しいんだろうな、そりゃ。だが同情はせんよ。弱いもののほうが、もっと苦しいからな」

 

 そう、「弱いものたち」は、自分を苦しめているのが親であるがゆえに、もっと苦しい。

「家族に対する『死ねばいい』は、おなじ力で自分を殴りに来る」のだ。

 市川朔久子は、そんな子どもたちに、言いたかったのではないだろうか。慈しみ、愛してくれるのは、親とは限らない。その人たちからの愛を、どうぞ受けとってほしいと。

 

「その我慢は、自分を生かす我慢か。それとも、殺す我慢か?」

 禅問答のような言葉が、心に染みる。現状はすぐには変わらない。たぶん、「我慢」という意識も持つことすらなく、息を殺し、自分を殺し、なんとか今日をやりすごしている子どもたち。しかしあらゆるものを、堂々と味方につけて、したたかに親の元から飛び立ってもよいのだ。なぜなら、あなたたちこそ宝なのだから。市川朔久子の紡ぐ物語は、やわらかなのに強い。そして、一握りの希望をそっと置いてくれる。

 2016年10月

読んだ人:上坂和美

読んだ本:あいー永遠に在り 角川春樹事務所 高田 郁/著

 

 天保の飢饉の頃、貧しい農家に生れ、明治37年にその生を終えるまで、「逢」「藍」「哀」「愛」を身をもってしめした「関 あい」の物語です。副主人公は、「関寛斎(せきかんさい)」。二人は実在した夫婦です。

 

 実は、今回読み直したのは、医師とはどういうものか、という観点からもう一度、その世界を味わってみようと考えたからです。

 

 関寛斎は、どんな時も「私は医師です」と、人が躊躇することを押し通します。祝言の折、花嫁の「あい」が倒れた時は、その吐しゃ物のにおいをかぎ、花嫁をおぶいます。「祝言の席でそんな無様な格好を」と責められると、一言「私は医師です」と、きっぱりいいます。

 

 また、銚子で開業した時のことです。

「先生、あの患者は節季に支払いをしたことがありませんよ」

 見習い生がいうと、激高するのです。

「貧しい者が病を得れば一層貧しくなるのだ。そう簡単に薬礼など払えまい。医師がそれを理由に治療を拒めばその患者はどうなるか、よく考えろ。医療を金儲けの道具にするな」

 

 寛斎は、四歳の時、母を病でなくしているのです。

「助かる命ならば、私はどんなことをしてでも助けたいのだ」

 あいは、寛斎の切実な思い、志の高さを深く胸にきざんでいます。

 

 寛斎を「この国の医療の堤に」と、支援するのが、濱口梧陵(はまぐちごりょう)です。この人も実在の人物で、津波から村人を救った「稲むらの火」で有名です。故郷である紀州・広村(現在の和歌山県有田郡広川村)に拠点をおき、銚子に醤油醸造所、江戸に販売店を持つ大富豪なのです。

 

 当時は、今よりずっと生と死が近かったのですね。あいは、12人の子どもを産み、6人に先に逝かれてしまいます。どの子どもの死も、もちろんそれぞれ違っています。後悔と哀しみにうちひしがれるあい。

 そんなあいを救うのは、夫への「愛」です。夫の母にまでなろうとしたあい。寛斎に「婆はわしより偉かった」と、いわしめたあいの静かで芯の強い生き様は、強くて深い藍の手触りを思い出させてくれました。

 2016年9月

読んだ人:今関信子

読んだ本:

日本の少年小説ー「少国民」のゆくえ インパクト出版会 相川美恵子/編集・解題

昭和の親が教えてくれたこと 大和書店 森まゆみ著

 

 74才という年齢のせいでしょうか。最近の世に吹く風が、そうさせるのでしょうか。
 このところ、「戦争」を考えつつ、児童文学作品を読んでいました。
そんな折り、相川恵美子さんの「日本の少年小説ー『少国民』のゆくえ」を読むチャンスを得ました。
この本は、近代を中心にした短編アンソロジーです。
 収録作品は、一章  愛国と冒険の扉を開く 泉鏡花「大和心」、巌谷小波「朝鮮の併合と少年の覚悟」、山中峯太郎「南洋に君臨せる日本少年王」   二章「少女」の世界 佐々木邦「おてんば娘日記(抄)」、吉屋信子「わすれな草」北川千代「名を譲る」 三章  底辺からのまなざし 本庄陸男「白い壁」 武田亞公「港の子供たち」、安藤美紀夫「露地うらの虹」 四章 われ、少国民なり山中峯太郎「東の雲晴れて」、巽聖歌「序詩ーきみは少年義勇軍」、下畑卓「軍曹の手紙」 五章 軍靴の果てに 早大童話会「『少年文学』の旗の下に!」、佐野美津男「浮浪児の栄光」、岩本敏夫「おならのあと」中宗三重子「島」、猪俣繁久「ふまれてもふまれても」、那須正幹「The End ofWold」の諸作です。

 私は、「相川さん、よく勉強しているなあ」と、思いました。当然読んでいなければならない何編かの作品を、この本で読ませてもらえました。歴史を知ることの大切さをことさら思うのは、日本児童文学者協会の「新しい戦争児童文学」委員会の公募に応えて作品を書いた経験からなのですが、児童文学の世界で仕事
をしているのに、不勉強な私は読めていなかった作品があったのです。この本は、そんな私に、ありがたい一冊でした。

 森まゆみの「昭和の親が教えてくれたこと」は、肩から力が抜けるエッセイです。1954年生まれの著者が、日常をを描くのですが、切り取ってくる事象に、庶民の哲学が生きています。「しなないですまなかった」は、一年早く生まれていれば持っていかれて特攻隊だったと、実感しているお父さんの言葉が生きていますし、「親しき仲にも礼儀あり」は、選挙の時、「誰に投票したか教えて」という娘に「誰に投票したかは、夫婦でも秘密」というお母さんが書かれています。ご両親 は、戦後民主主義のリベラルな家庭を作ろうとされていたので、反戦平和、男女平等、近代化が肯定されています。著者は、四年生の時に書記長に立候補して落選、五年生の時副委員長になったと言います。何気なく掴むエピソードに、時代の空気がよく写っています。
 相川さんの本を読んだあとの森さんの本は、ある意味気楽に読めた一冊でした。でも、自由に生きるための知恵がたっぷり詰まったこの一冊は、ぜひと勧めたくなりました。

 2016年8月

読んだ人:うたかいずみ

読んだ本:詩の樹の下で みすず書房 長田弘/作

 

 みなさまには、「お気に入りの樹」って、ありますか? たとえば、その下に立ったりそばを通るだけで、特別な思いがこみ上げてきたり、なにかしら語りかけたくなるような、そんな樹が。

 

はるか昔より樹々には精霊が宿るといわれ、信仰の対象や祭りごとのシンボルツリーにもなってきました。

そのような特別なものではなく身近な公園や庭の樹々も、人々の日々の暮らしを見守り続けてくれているような気がします。そして、ただ静かに同じ場所に立ち枝葉を広げ、人間だけでなく鳥や虫たちの命の営みを支えてくれているように思います。

 

『大きな樹の下に立ちどまって、樹を見上げる。それだけだ。それだけで、いまじぶんのいる風景が、きれいに変わってしまう。』

 

『幸福? 人間だけだ。幸福というものを必要とするのは。』

 

クリムトやセザンヌ、フリードリッヒ、コンスタブルの樹の絵に添えられた長田弘の散文詩は、難解ではなくだれにでも分かるような言葉でつづられています。けれど、どきっとするほど印象的なのです。

2ページずつで構成された散文詩のタイトルは、「秘密の木」「懐かしい死者の木」「奥つ城の木」「独り立つ木」「少女の髪の木」「モディリア―二の木」「寓話の木」「虹の木」等など。これらがたばねられた一冊の詩集は、大きな樹のようにさえ思えてきます。

 

帯には「FUKUSHIMA REKUIEMU」と記されています。長田弘は福島市の生まれで、森の樹々に囲まれて育った幼い頃の思い出を、幸福の形の詩集として発表する予定でした。けれど、2011年に起こった東日本大震災によって、福島は大きな被害を受けました。

まるで彼の幼年期の記憶の樹々がことごとくなぎ倒されていくような、個人の死命さえ悲しむこともかなわないほどのできごとは、詩集の持つ意味を大きく変えました。

「復興」の復の字は死者の霊をよびかえすという意味があり、興の字にも地霊を興すという意味があるため、この詩集はその祈りへの言葉を伝えるものとなりました。2011年という発行年の意味も大きいのです。

詩集は「わたしは、かつて、樹だったのかもしれない」、そんなことを思わせてくれる力を持っています。読み終えてから、周りの樹々を見てみると、その一本一本が親しい友だちのように見えてきます。

 

2015年に長田弘が逝った時、私は悲しくて途方にくれました。けれど、はたと気がついたのです!

「文明の利器があるじゃない!」パソコンに向かって「長田弘 朗読」というキーワードを打ち込んでみました。すると、彼のとつとつとした穏やかな声の「世界はうつくしいと」という詩の朗読が、パソコン動画からゆったりと流れてきたのです! まるで目の前に長田弘がいるようでした。

以来、時にはスマートフォンの音声入力設定で、そっと呼びかけてみます。とたんに、彼の魂が呼び覚まされたかのように声が立ち上がり、朗読を聞くことが出来るのです。本の中の作品を作者の朗読で聞けるのは、なんとも不思議で幸せなことです。

 2016年6月

読んだ人:森くま堂

読んだ本:老嬢物語 偕成社 高楼方子

 

「ああ! わたし達、不仕合せな年寄りの婆さんは、無邪気な赤ん坊にさえ好かれる齢が過ぎ去った。小さな子供たちを 可愛がろうと思っても、怖がらせてしまうばかりだ!」

    -ボードレール〈パリの憂鬱「老嬢の絶望」〉より

 

 

  ちょっと待った、おばあさん、

      それは早合点というものです!

 

 

 表紙を開けたら、いきなりこんな文言が目に飛び込んできたとして、パタリと本を閉じる勇気を持つ人がどれくらいいるだろう! もちろん、へたれな私はぐいぐいその先のページをめくらされた。『老嬢物語』の冒頭である。

 目次には、(ソラマメばあさん)(おばあさんとクマ)(ナポリの空の下)(なりきりレディー)(いとしのティギーおばさん)(すりよりばあさん)(夕映えの道)(石さん町子さん、ありがとう)と、魅力的な婆さん、いや、タイトルがずらり! さまざまな老嬢の物語から、なかでも特に印象に残ったものを上げてみる。

 たとえば、ナポリのおばあさん。信号はどこもあてにならず、ドアの取れた車や、三人乗りのバイクなどがブイブイ過ぎる通り、クラクションにまじって「ファビリッツィオ~」「アンドレア~」などの叫び声が喧しい通りを、腰を曲げ杖をついてハッシハッシと渡っていく。たわわに実ったオレンジの木の下で、いかにも自分の木ですよというように、スカーフをぴしっとかぶり露天を出すお婆さんもいる。

 ナポリだけではない。日本では、高楼さん一家のお墓参りになぜかさりげなく、すりよってきたお婆さん。

 マイフェアレディ―のお婆さん版とでもいうような、映画「いちにちだけの淑女」「ポケット一杯の幸せ」(フランク・キュプラ監督)に出てくるお婆さんだとか。ピーターラビットの作者、ポターが描くハリネズミのティギーおばさんだとか……。どの章でも、世界中の魅力的なお婆さんが、私を見て!見て!というように登場してくるのだ。

 この本に出てくるお婆さんはだれもかれも、身の内に消えないいたずらな少女の炎を燃やしているようで、とにかくエネルギッシュでかわいらしい。高楼方子は、「世間体も、年相応にふるまわねばというストイックな自覚もさらりと捨てて、自分の中に最後まで残った軸に自分を預けて生きるのは、さぞすがすがしいだろう」と書いている。

 ところで昔話に限らず、爺さんと婆さんが描かれる物語りでは、婆さんが圧倒的に強いパターンがほとんどである。女性は自分の身の内にエネルギーを取りこみ、命を育むようにできており、それ故、重なる歳月も身の内に重ねて発酵させ、新たな力にして生きることができるからかもしれない。エネルギー放出タイプの男性には、逆立ちしたってできないことだろう。また、老婆と老嬢とは似て非なるどころか、まったくもってちがった存在であるということも、高楼方子は声高らかに宣言している。

 見渡せば、まわりにもすばらしい老嬢がわんさかいらっしゃる。私も年齢だけはじゅうぶん老ではあるが、いかんせん迫力が全然足りない。でも、いつか、いつか、たくましい老嬢の仲間入りができたなら……。

本書はまさにそんなふうに、年をとるのが楽しみになる一冊だ。いいか悪いかは別として、これを読めば、元気な老嬢ぞくぞく増殖すること間違いなし。もしかして、元気な婆さんが世界を救う!なんてこともありえるかもネ、と思えてしまう。

 最後にこの老嬢たちのなかに、かの石井桃子さんや長谷川町子さんが挙げられていることも付け加えておきたい。

 どんな老嬢であったかは、みなさまの読書のお楽しみということで……。

(本書は偕成社のホームページで2012年から2年間にわたって連載されており、単行本化されたものである)

 

 2016年5月

読んだ人:楠 章子

読んだ本:うるうのもり 講談社 絵と文/小林賢太郎

 

 お笑いコンビのラーメンズのどちらかが、演劇の脚本を書き、演出もする人なのは知っていた。評判がいいようなので、一度観に行きたいなあと思っていたら、本を出したと聞いた。へえーと興味津々で買い求めた。

 Amazonから届いた本は、絵童話だった。絵も文も小林賢太郎とある。へえー、絵も描くんだ。で、小林賢太郎って、どっち? 気になるので読む前にGoogleで調べたら、今、松本潤のドラマに出演している片桐仁じゃない方という事がわかった。さらに、二人が多摩美術大学の出身であるという情報も。なるほど、それでこの『うるうのもり』の絵も書いているのだな。表紙絵は繊細なペン画で、けっこう好きな感じ。

 さてさて、どんな本なのか全く予備知識がないまま開いてみる。見開きが深い緑色で、森の絵になっている。素敵な演出だなと思いながら、物語の中へ。

 主人公の僕は、行ってはいけないと言われている森へ入っていき、おばけのうるうに出会う。うるうは、自分の事をいつも余りの1だったのだと話す。二人三脚で余った。誰とも足をむすべず、一人二脚。組み体操で余った。誰とも組まずに組み体操をやった。騎馬戦で余った。ひとりで馬っぽく走り回った。いつも自分ひとりのぶんだけ足りない。いつも自分ひとりだけが余る、と。そんなうるうは、いつしか自分がいなくなれば、世界のバランスがとれると考え、森にかくれているのである。森は数を数えない。きっちり100個数えて実る木の実はないし、きっちり100枚数えて散る枯葉はない。数えないから余らないという考え方は、哲学的で興味深い。僕はうるうを可哀想だと思うが、うるうは「でもなあ、仲間はずれもだいじなんだぞ」と言う。

 絵童話であるが、絵本に近いぐらい絵が多く、文字の位置や絵を入れるタイミングが絶妙。絵童話の可能性を提示してくれたような本だ。僕はうるうと仲良くなるが、最後は少しせつない終わり方をする。好きな雰囲気の一冊だった。しかし気になるところは不老不死のくだりで、些かチープではないだろうか。せっかくの哲学も、不老不死話がチープなせいで深みが出ない。

 辛口な事を偉そうに書いたが、白秋の「まちぼうけ」の歌やチェロで弾く「カノン」を上手く物語りに溶け込ませたのは、さすが舞台演出をする人の本作りだと感動したし、ラストシーンは本当に美しかった。どうやら私は、小林賢太郎のファンになってしまったようである。

 すぐに小林賢太郎戯曲集(幻冬社)を購入した。舞台も機会があれば観に行こう。本の方も期待している。次は絵本を出して欲しいな。

 2016年4月

読んだ人:今関信子

読んだ本:キムの十字架 明石書店 和田登/作

 

1983年に出版された当時から、この本は、児文協の会員たちにも広く読まれ、アニメにもなって、子ども読者の手にも渡っていました。

 

  40才になったばかりの私は、もちろん読みました。でも、正直に言えば、「戦争もの」に気持ちがひるんで、積極的に手を伸ばしたわけではありませんでした。あの時は、児童文学の世界にいるのに、話題の本を知らないのでは……という気持ちで読んだことになります。

 

  70才になって、この本に再会して、適切な表現ではありませんが、この本に「いかれています。」

 和田登さんの手法に、同感したからかもしれません。

  この本を誕生させるまでの、作家根性にか、歴史を捉える目にか、和田さんという作家に魅了されたからかもしれません。

 

 ある日、和田さんは、上田市の本屋で、朴慶植さんの労作、「朝鮮人強制連行の記録」を見つけます。

 そこには、アジア・太平洋戦争の敗戦の色が濃くなった時、日本軍は、本土決戦の最後の砦にしようと、松代の皆神山、象山、舞鶴の三つ山の山腹をくりぬいて、皇居、大本営、政府機関や放送局まで移す計画をたてたこと、そのため、強制連行の7,8千人の朝鮮人労働者が、暗い地下の穴掘りに従事させられたこと、工事がほぼ完了した際、機密隠ぺいのための同胞虐殺と伝えられる行方不明者があること等の記述がありました。

 和田さんも研究者たちも、寺々を歩き、火葬場を訪ね、証言を集めました。

 

  和田さんは、この素材を、最初は「悲しみの砦」というノンフィクションにまとめました。テーマを深めきれなくて、フィクションで「キムの十字架」を書くことになります。

 

  ノンフィクションとフィクション、その可能性と限界を知って、この本のために選び取った方法に、私は納得しています。70才になって、「戦争物」に感動しています。

 

 私の、この本との幸せな再会は、仕事の方法を悩んでいる時でした。

  人生の深まりが、仕事の中の出会いが、この本の魅力を教えてくれました。 「キムの十字架」は、今、手を伸ばせば届くところに、おいてあります。

 2016年3月

読んだ人:中川なをみ

読んだ本:ぼくが弟にしたこと 理論社 岩瀬成子/作 長谷川集平/絵

 

機関誌「日本児童文学」3/4月号の『創作時評』より、一部を転載しました。 

 

ぼくの両親は三年前に離婚して、ぼくと母と弟は市営アパートに越してきた。

ある日ぼくが大事にしている二〇四ピースのジグソーパズルを、弟が勝手にさわっているところに居合わせたぼくは、弟を思い切り引き倒した。

「ごめんなさい」とあやまる弟を、さらになぐるが、弟は一切抵抗をしない。そんな弟にぼくはいらだち、もっと痛めつけてやらなきゃ、自分の正しさを証明できないような気がして、また弟をなぐる。

パズルは転校する前に友人からもらった大切な品だった。

 

 無抵抗の弟をひどくなぐって、やりすぎたと反省するが、父もそうだったと思い出す。

父もぼくをなぐったけれど、あやまらなかったと。

ぼくは父に何度もなぐられたり心を傷つけられたりしたが、深い闇の中に封印していた。

弟をなぐったことで、父の暴力を客観視できたぼくが、父と向き合って「どうしてなぐったりしたの?」と聞く。

父は自分を正当化していい繕うが、ぼくは(父はもう、ぼくとは重なり合うことのない場所にいる人なんだ)と思う。

 

 物語で読ませるわけではなく、登場人物が特別に目を引くキャラクターというわけでもない。

どこにでもいそうな子どもや大人の、どこにでもありそうな日常が心情豊かにきわめて鮮明に描き出されている。

親に気を遣う子どもの姿も、威圧的で暴力的な親を、自分の人生から切り離そうとする子どもの姿も、大きく声を上げることなく静かに絶対的な存在感をもって読者を説得する。

言葉の力に他ならない。表現したいことを的確に表現するための言葉の一つ一つを、著者は丹念に妥協なく、誠実に選ぶ作業をくりかえしたのではないだろうか。

選ばれた単語の一つ一つは普通の言葉だが、それらが連なって文章になったとき、意図する情景の描写になくてならない特別な文章になるのだ。それ以外の表現は他にないほどに適切なものとして。

文芸の芸とはこういうものかと思わせられた。更に言うなら、登場人物の一人一人に寄せる著者の愛情深さと信頼が、作品全体を信じられる世界に昇華させている。主張しない弟の存在がいい。

 

 2016年2月

読んだ人:服部千春

読んだ本:銀河鉄道の夜 講談社青い鳥文庫 宮沢賢治/作

 

 ここ暫くは仕事に追われて読書を楽しむいとまのない日々を送っています。
有難いことだと感謝するものの、心が渇いて仕方がありません。
この『銀河鉄道の夜』は、創作の中に引用するため必要に迫られて先日読みました。子どもの頃に手にした記憶はあるので、再読かもしれません。しかし、覚えがないのです。

 

 自宅の本棚を探してみると、ありました。講談社の古い青い鳥文庫版で、絵は広瀬雅彦。巻頭には「雨ニモマケズ」、ほかに「オツベルと象」や「なめとこ山のくま」などいくつかの話が収録されています。

 今からちょうど二十年前のこと。当時生誕100年とかで、宮沢賢治が再注目されたことがありました。記念本や著作がたくさん出版されました。色々な著名人が宮沢賢治を熱く語るのを私は黙って聞きました。というのも、その頃創作を始めたばかりの私には賢治作品の良さがあまり理解できなかったのです。子どもたちの教科書にも、賢治作品は多く採用されています。「注文の多い料理店」や「なめとこ山のくま」などは、息子たちの宿題の音読につきあった覚えがありますし、「雨ニモマケズ」は私自身が子どもの頃好きで、諳んじられるように覚えました。それでも「銀河鉄道の夜」となると……。

 「銀河鉄道の夜」は賢治が数年にわたり手掛け、死の間際まで繰り返し手を入れていた作品だけれども、未完成のままで残されていた作品だそうです。現在出版されているものは、原稿に空白部分があるのもそのままになっています。

 今回この作品に対峙して私は、頁を繰り読み進めるにつれ、胸の中がしんと冷たく冴えわたる思いがしました。銀色の空のすすきも、紫のりんどうの花も、赤く光る火も、どんどん色を失い彼方へ去り、ただ青白く光る銀河だけがそこに横たわっていました。

 作品の内容を全部理解できたかどうかは定かでありません。読む人によってさまざまな解釈のある作品だと思います。これを年若い読者に読解を求めてもなかなか難しいところがあるでしょう。わたしが内容をほとんど覚えていなかったのも、きっと途中で挫折して本を閉じてしまったからに違いありません。

 今回最後まで読み通してみたものの、私は最後にカンパネルラの行方不明の場面を持ってきたことと、それに対するジョバンニの反応に対して納得ができない思いでした。何度も手を入れ続けていた賢治は、どんな完成稿を想定していたのでしょう。それが判明しないことが残念です。

 私が「銀河鉄道の夜」をどんなところで引用したのか、次の作品を手に取っていたただけたら幸いです。

 2016年1月

読んだ人:中谷詩子

読んだ本:科学者は戦争で何をしたか 集英社新書 益川敏英/作

 

 ノーベル賞科学者益川敏英が、恩師である理論物理学者坂田昌一さんの言葉「科学者である前に人間たれ」の理念に基づき、科学者が過去の戦争で果たした役割を詳細に分析する著書。

 科学研究の成果は常に中性である。ただ新しい物質が発見されたり、応用していく技術が進化していくだけのものであり、決して軍事に利用してはいけないことを明確にする。

 それは、恩師の考えに影響されただけではない。

著者が幼い時に自宅に焼夷弾(戦争中に米軍が開発した殺傷兵器)を落とされ、幸い不発弾だったゆえ難は免れたものの、その恐ろしさは一生記憶から消すことができないと、衝撃な事実を語る。

 

 アルフレット・ノーベルのダイナマイトの発明は、社会に役立つ一方敵を大量に殺傷する戦争に、1903年にノーベル賞を受賞したA・Hベルクルとキューリー夫妻のラジウム元素の発見も、人類の発展に寄与する反面、その放射能の恐ろしさはいうまでもない。ヒットラーは、後にノーベル賞受賞者の化学者が発明した有毒性の殺虫剤を利用してユダヤ人を大量殺戮に追いやった。

アメリカでも第二次世界大戦勃発後は、「マンハッタン計画」がはじまり原子爆弾製造は実現可能という説がうまれた。

 それは、ナチスが数百万人のユダヤ人を虐殺するという恐ろしい罪をおかした比ではない。

 そんな危機感から核廃絶を訴えるラッセル・アインシュタイン宣言が生まれ、核兵器の開発、発達とともに生じた人類の危機を科学者たちが会議を開いて共有しあうバウォッシュ会議に至った。

 とはいえ、科学の世界情勢は簡単には変わらない。

 著者は、科学者に現象の背後に潜む本質を見抜く英知があれば平和への思いも途絶えることがないという坂田先生の教えを終始受け継ぎ、長いスパンで明るい未来を予測しながら、科学者を超えた平和運動の展開を実践している。

 科学と軍事が密接に結びついている現代こそ、科学者の想像力、人間の生き方が問われるという考え方に深く共鳴した。

 21世紀の今、科学者と市民が一体になってその恐ろしさを認識し、平和への道を模索していく必要性を強く感じさせる。

 現代人として、真剣に向き合い考えていきたい内容の著書である。

12 月

読んだ人:上坂和美

読んだ本:天涯の船 上下 新潮社 玉岡かおる/著

 

 ありえない話をあるかもしれないと読者に思わせる説得力がありました。この物語は、歴史上に実在した人物たち、東京・上野の国立西洋美術館の松方コレクションで有名な松方幸次郎(1866~1950)、オーストリア貴族の妻となったクーデンホーフ光子(1874~1941)などの生涯が参考にされています。そのあたりが、リアリティに通じているのでしょう。

 フィクションとノンフィクションの狭間で、さまざまな仕掛けが張り巡らされていました。たとえば、物語の最初に出て来る美しく小さな「船」のペンダントトップの意味するもの。それこそが、下女の身分であった14歳の主人公の少女像なのです。

 明治17年、姫路藩主の家老であった酒井家の姫君酒井三佐緒の身代わりとして、下女がアメリカ留学をすることになりました。その船には、後に川崎造船所の社長となる桜賀光次郎が乗り合わせ、二人は運命的に出逢います。

 また前編には、影の主人公もいます。本物の三佐緒の乳母「お勝」です。彼女のすさまじさは、三佐緒を愛するあまり、もう一人の少女ミサオの人生を変えてしまうほどです。船中では、ミサオに激しい虐待を加え、かと思うとアメリカでは、その少女に懸命に仕えます。こういう激しさと忍耐強さをあわせ持つ武士の娘に明治の女たちは、鍛えられたのかと、はじめて知りました。ミサオは虐待されるという苛酷な経験を乗り越え、アメリカでやっと自分らしく生きようとしました。しかし、運命はオーストリアで、またしても厳しい試練をあたえます。

 後編は、それから25年後の二人を描いています。

 第一次世界大戦前後の社会情勢、川崎造船所の栄光と挫折、大きな歴史のうねりに翻弄されながら、それぞれの人生を毅然と生き抜く二人が再び出会うのです。

 桜賀には夢がありました。私費を投じて、美術館をつくることです。

「ミサオはん、日本には一枚でも多く、すぐれた絵が要るんでごわす。美術館の一つもなしになんで文明国と言えるじゃろうか」

 莫大な金が絵の収集に投じられます。その後、海外に保管されたままになってしまった桜賀の膨大なコレクションの行方も数奇な運命をたどることになります。

 男は女の苦難に満ちた人生のために。そして女はこの男との壮大な夢のために。

 再び巡り合った男女は、夢のような時を過ごします。ミサオは苛酷な運命を受け入れ、見事に生き抜きました。われわれはいかに生きるべきか? 悩み多い現代ですが、この作品は人生への大いなるモデルとなってくれるのではないでしょうか。

11 月

読んだ人:北 ふうこ

読んだ本:うたうとは小さないのちひろいあげ 講談社 村上しいこ/作

 

 主人公は高校1年生の桃子。不登校の親友・綾美が再び登校するまで友達は作らないと誓いを立てるが、ふとしたことで知り合った関西弁の先輩・清らから強引な勧誘を受けて「うた部」に入部し、短歌の面白さや「うた部」の面々に、次第に心を開いて行く。

 物語の至る所に短歌が挟まれ、そのひとつひとつが、とても素晴らしい。

 いと先輩、清ら、業平、そして桃子、その人物像がみごとに短歌に反映されている。

 「うた部」の活動は、とても魅力的だ。作品をみんなで批評し、その意見を取り入れてその場で詠み直したり、またそれを受けて別の人が詠んだりする。日曜日にスポットを決めて出かけるピクニック短歌(ピク短)もある。

 お題を設定して短歌を読む「題詠」、自然と湧き起こる思いを詠む「自由詠」など、詠み方もいろいろあって、私の中の「短歌」のイメージが大きく覆された。

 とにかく発想を自由に、出来るだけアンテナを高くという姿勢は、作品作りに共通のもので、うなずくことがたくさんある。

 主人公の短歌初心者だった桃子が、どんどんと上手くなっていく様子がリアルに描かれ、「子育て」のような妙に誇らしい気持ちが湧いてくる。

 綾美のいわゆる「イジメ問題」もあって、常に明るい物語ではないが、青春ど真ん中を体当たりで挑む彼女たちのエネルギーが物語をグイグイと読み進めてくれ、読後感はとても爽やかである。

 タイトルは、物語後半の短歌甲子園での連歌で、桃子が作った「上の句」そのままである。この上の句に、どんな下の句をつけるのか。

 言葉って素敵だと、改めて感じさせられた本である。

10 月

読んだ人:おちまさ子

読んだ本:カラスネコチャック 小峰書店 野田道子/作 オオノヨシヒロ/絵

 

 主人公チャックは、全身真っ黒なカラスネコです。カラスネコとは、まるでカラスのように黒いため、こう呼ばれているそうです。

 五匹のきょうだいの中で、チャックだけが真っ黒なので、ほかのきょうだいたちからからかわれます。そんなとき母ネコから、「カラスネコはしあわせを呼ぶネコなんだから〝ホコリ〟をもたなきゃだめだよ」と、教えられます。

体が細いうえに気が弱く、世間知らずのチャック。ある日家族と生き別れてひとりぼっちになり、生きるために食べ物を探すようになります。そんなチャックの心の支えになったのは、母ネコに言われていた〝ホコリ〟です。〝ホコリ〟とは自分を好きになって、一生懸命生きていくことです。

 人間に追いかけられたり、遠くの山に住んでいるというひいひいじいさんをさがしにいったり……。次々に起こる事件や展開に、わたし自身も物語の中に入り込んだような感覚で読み進んでいきました。

 すみかが敵対するのらネコたちにおそわれた時、チャックはすぐさま立ち向かいます。その勇敢さは、もう気弱なカラスネコではありませんでした。仲間に助けられ、激しい戦いが終わった時、「ぼくは自分だけの力で生きているつもりだったけれど、まわりに守られていたんだ」と気付くのです。

 知らないところでまわりに守られているのは、人間世界でも同じ。読み終えたあと、清々しい気持ちになりました。

 

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